| ■ 池田先生の略暦 ヘルツカ先生へ |
| Date: 2010-08-25 (Wed) |
原田老師
日本は猛暑が続いていると聞いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
マルゴットに手伝ってもらいまして、下記の文をヘルツカ先生に送らせて頂きました。
Yoshikazu Ikeda
*1940 geboren in Tokyo
1968 - 1987 Professor für Philosophie und Ästhetik an der Meijo Universität in Nagoya
1973 Promotion in Philosophie an der Freien Universität Berlin
1977 - 1978 Gastprofessor an der Freien Universität Berlin
1988 - 1992 Direktor der Kunsthandwerkerschule "Hida Global Institue of Human Art" in Takayama
1992 - 2008 Philosoph und Künstler in Takayama
1995 - 1998 Stadtrat in Takayama
2007 Gründung des Hauses der Philosophie "Kojin-sha" in Takayama
+ Juli 2008 gestorben in Takayama
こちらは皆元気にしております。今、母が福岡から来ておりますので、毎日買い物に行ったり、名所を見物に行ったりしております。
忠雄もテーブルなどによじ登るようになりましたので、ひと時も目が離せません。この週末はまたこちらの両親の所へ行く予定にしております。
皆様にも宜しくお伝え下さい。
禅勝九拝
| ■ 真民さんの逝去 |
| Date: 2010-08-10 (Tue) |
> 中日新聞『中日春秋」12月15日を開き、真民さんの逝去を知った。先日飛騨観音霊場のホームページに、会長になった挨拶をのせたが、私の信仰の原点に真民さんぬきでは語れなく、こんな文をのせた。
平成十八年秋、拙寺に霊場会の皆様の参加を頂き、秋期霊場会法要を厳修し、新十一面観音様の開眼、安置することが出来ました。飛騨は、信仰の深い風土で、円空上人も、永く飛騨この地に滞在し沢山の観音様を彫って下され、庶民の悲しみ、喜びの暮らしの中に観音様が生きています。「念ずれば花ひらく」仏教詩人坂村真民さんは、原田和尚の大切な心の師です。明治四十二年熊本に生れ、八才で父を失い、五人の兄弟の兄として母を助けての青春から幾多の困難と立ち向かい悲しみの人に勇気を与える詩を書き、九十五才の一昨年三月まで、毎月「詩国」を無料で配布してこられました。
呼応 坂村真民
赤ん坊がなくと すぐ飛んでくるお母さん
どんな小さな声でも 聞きつけて
すぐに飛んでこられる観世音菩薩様 ああ
この呼応の ありがたさよ 不思議さよ
今朝も、飛騨の山河を抜けて悠々小八賀川の川辺を右廻り
にて、天地いっぱいに歩行する。足を拝む信仰こそ佛道の原点。
尊いのは足の裏であるの真民思想。
音もなく落ちた朴の葉 広がる山麓に裏を見せ表を見せて
寂滅の世尊の教えを示す ありがとうございます 真民さま
詩国五百号記念の松山大会に参加した日の鳩杖の真民のお姿を偲びつつ。 飛騨 正宗寺内 原田 道一
| ■ 伊藤ていじ主催による高山サマーセミナーの企画運営 |
| Date: 2010-08-10 (Tue) |
伊藤ていじ中谷正人(なかたにまさと)略歴
1948年 神奈川県生まれ
1971年 千葉大学工学部建築学科卒業
新建築社入社/『新建築』編集部
1973年 伊藤ていじ主催による高山サマーセミナーの企画運営(77年まで5年間開催)
講師:1973:磯崎新・粟津潔・石毛直道・篠田正浩・篠原一男・山崎正和・大江宏
1974:槙文彦・東孝光・二川幸夫・梅原猛・岸辺成雄・泉真也
1975:浦辺鎮太郎・池田武邦・磯崎新・宮脇檀・筑波常治・石井幹子・岸辺成雄
1976:吉阪隆正・長谷川尭・安藤忠雄・石井和紘・重信常喜・中平卓馬・原田道 一・M.シュパイデル
1977:流政之・磯崎新・川上秀光・漆原美代子・伊藤文吉・永六輔
1975年 第1回「新建築講演会」(福岡)の企画運営.以降,全国で毎年2〜4回担当
1975年 5/14〜6/4 EUROPE視察/ITALIA, AUSTRIA, SWISS, GERMANY, FRANCE,DENMARK, FINLAND
1982年 9/11〜25 AMERICA視察,各地で建築家と懇談/SAN FRANCISCO, CICAGO,BOSTON, NEWHAVEN, NEWCANAAN, NEW YORK, PHILADELPHIA, DALAS,FORTWORTH, HOUSTON, LOS ANGELS/Philip Johnson, Cesar Pelli,Stanry Tigerman, Richard Meiyer, James Wines, Andrea Leers, RobertVenturi, Paul Cannon, etc.
1986年 9/29〜10/8 ART-DECO IN NEW YORK視察(NEW YORK, CHICAGO)
10/9〜14 LOS ANGELES/MOCA(設計:磯崎新)取材
1988年 新建築『住宅特集』編集長に就任
1989年 EUROPE視察/WIEN, MILANO, COMO, NAPOLI, ROMA, EUR, PARIS
JIA中国四国支部合同シンポジウム/パネラー(岡山県北木島)
1990年 3/27〜4/11 "20th CENTURY ARCHITECTURE(建築20世紀)"取材のため渡 欧/MILANO, TORINO, MODENA, BOLOGNA, VENEZIA, SAN VITO, VERONA, COMO,BASEL, DORNACH, LA CHAUX-DE-FOND, RONGCHAMPS, LYON, MARCEILLE,BARCELONA, WIEN
9/ ABITAREITALIA(ITALIA, VICENZA)にイタリア貿易振興会より招聘を受け,シンポジウムの参加,さらに1週間,ヴィチェンツァおよびヴェネツィアを視察(日 本側委員長:槙文彦)
11/ 日本建築学会『建築雑誌』1月号「建築ジャーナリズムについて」執筆
1991年 『新建築』編集長就任
5/ 京都市建築士会のシンポジウムのコーディネーター/山本理顕
8/ 高知県建築士会主催サマーセミナー講師
9/ ABITAREITALIA(京都)にイタリア貿易振興会より招聘を受ける
1992年 5/ 京都市建築士会のシンポジウムのコーディネーター/北川原温
6/ 香川県坂出市でJIAシンポジウムコーディネーター/竹山聖,小林克弘,古谷誠章
7/ SWEDEN,FINLAND両国の外務省より招聘を受け,両国各地を視察 (16days)
9/ ABITAREITALIA(ITALIA, CARRARA)にイタリア貿易振興会より招聘を 受け,シンポジウムの参加とカラーラ,シエナ,サンジミニアーノ,ピサなど を1週間視察
昭和女子大学講師
1993年 新建築社編集部長就任
5/ 京都市建築士会のシンポジウムのコーディネーター/妹島和世
6/ JIA全国大会青年建築家会議のパネラーとして出席
9/ 日本建築学会全国大会(東京・都立大学)にパネラーとして出席
1994年 新建築社にて『建築ガイドブック』の編集・執筆を担当(8月に刊行)
4/15 新建築社退社
東海大学工学部建築学科非常勤講師
9/26 有限会社中谷ネットワークス設立
1995年 3/16 『土佐派の家』刊行(企画・編集を担当)
3/18 これからの街なみと環境づくりを考えるシンポジウムの基調講演
パネルディスカッション・コーディネイター
パネラー: 橋本大二郎高知県知事
鍵岡正謹高知県立美術館館長
伊藤憲介高知県住宅供給公社理事
山本忠司日本建築学会四国支部長
山本長水新日本建築家教会四国支部長
3/20〜26 ITALIA/PARELMO 石材展に招聘され渡伊
4/1 「土佐派の家」シンポジウム(高知県主催)の基調講演およびパネラー
1996年 5/30 『土佐派の家/PARTU/技と恵』刊行(企画・編集を担当)
6/12〜24 HELSINKI市の招待によりFINRAND視察
8/19〜24 「木造の伝統と前衛」セミナーを主催し高知県で実施(以後毎 年7月に開催)
12/14〜21 中国・浙江省、福建省へ木造橋の撮影取材
1997年 日本フィンランド都市環境セミナー「木と暮らす−日本の作法・フィンランドの知恵」展キュレーター(会場:高知県、長岡市、旭川市、大分市、
東京、松江市等にて開催)のキュレーションを担当
そのため1/11〜18、2/8〜15の2回にわたってヘルシンキ市との取材打ち合
わせのため渡欧。展覧会は6月から開始。
1/3〜6 『新建築』掲載のシンガポール・マリナシティへ取材旅行
8/5〜16 青森県東通村でログハウス建設ワークショップを開催
10/11〜19 アメリカ広葉樹輸出協会(アメリカ農務省管轄)の依頼により
アメリカ・アパラチア山脈へプレスミッション参加(参加国はヨーロッパ、アジアから11ヶ国)
10/30 『CASA BRUTUS』木の生活特集に「現代木造住宅の問題点」執筆
12/1 個人的な情報ネットワーク「PINS」創設、以後毎月機関誌発行
1998年 『家庭画報』3月号「棟梁のつくる家」企画および執筆
10/30〜11/1 日本文化デザイン会議'98青森にパネラーとして参加
この間,NTV(11PM)の企画協力および出演(沖縄地方の建築の解説),現在
テレビ朝日で放映中の「渡辺篤の建物探訪」の企画・取材協力,その他各種週刊
誌等の企画などにも協力.
東京ガスのPR誌『GINZA POCKET PARK NEWS』に1年間(1985)連載.
芸術雑誌『三彩』の年評/建築の項目を1992年から3年間執筆.
現在の業務 :1993年以来TOTO(東洋陶器)のPR誌『TOTO通信』の企画
に協力して連続執筆中
セントラル硝子のPR誌『GLASS REVIEW』、TOTOのPR誌『住空 間』の企画編集協力および執筆
その他,展覧会・シンポジウム等の企画・コーディネイト,書籍の企画 編集,企業内研修会の企画運営,雑誌等特集記事の企画、取材および執筆,ル
ポ記事等を執筆
現在
有限会社中谷ネットワークス代表取締役
千葉大学都市環境システム学科非常勤講師
武蔵野美術大学建築学科非常勤講師
社団法人日本建築学会建築文化事業委員会幹事
高知県建築設計監理協会「土佐派の家」相談役
島根県「山陰の風土に適した省エネ住宅」検討委員会委員
島根県大田市新しい家づくり「素舞流」アドバイザー
青森県下北郡東通村間伐材利用促進委員会委員
ペンシルバニア大学サマースタジオ講師
主催による高山サマーセミナー
| ■ ドイツ ドモッホ先生から |
| Date: 2010-08-08 (Sun) |
Thursday, August 05, 2010 12:47 AM
Subject: Thank you so much
> Dear Harada family,
> after I have returned from France where I met my Kyudo teacher Shibata
> Kanjuro
> XX., I found your letter and the wonderful book with calligrafy, which is
> made
> really professional. I thank you very much for thisn wonderful present!
>
> I often think of your visit and our experiences which we shared. I only
> regret
> that it has been so short and that you had not yet overcome the jetlag; I
> always
> need 7 days for this process when I come back from Japan. I regret that I
> have
> considered this too little and that I have put you into stress.
> My Kyudo friends also speak of you and we share the pictures made during
> our day
> trips. If you come again - which I do hope - we should have more time and
> I
> would show you around in the nearer surrounding where we have not so much
> travel
> by car.
>
> From Japan I have good news: My friend Hideyuki has received inka shoumei
> by
> Harada Sekkei. And it seems that I may visit Japan next year already in
> springtime or in autumn maybe in both the seasons. Two of our kyudo
> friends
> would like to have an introduction into shikantaza and they are figuring
> out at
> which time they may be off duty. When plans become clearer, I shall reprot
> and
> ask for chances.
> May you all be happy and in good health!
> With warm greetings from the rhineland
> Walter
>
>
>
>
>
| ■ 矛盾だらけの禅』 |
| Date: 2010-08-07 (Sat) |
禅とは純粋なること」
平成22年(2010年)4月27日掲載
ローレンス・シャインバーグ氏に聞く
一九九五年にアメリカで刊行された『AMBIVALENT ZEN』という本がある。著者のローレンス・シャインバーグ氏は青少年時代から東洋思想に親しみ、その後、禅と空手の修行に没頭してきた東洋通の作家だ。特に禅については、アメリカでの禅布教にも尽力した臨済宗妙心寺派龍沢寺元住職の中川球童師家(故人)に師事。一九七〇年代から約四十年、研さんを続けてきた。その経験をつづった『AMBIVALENT ZEN』は、禅を求めるアメリカ人のための絶好のガイドブックとされており、このほど清流出版から『矛盾だらけの禅』の題で邦訳本も刊行された。「真実の禅は世界中どこにでもある」と語るシャインバーグ氏に、アメリカの禅事情を聞いた。(聞き手=小川寛大)
アメリカの禅修行者たちは非常にまじめで熱心だと、日本でも有名です。
◆熱心にならざるを得ない状況がありますからね。アメリカの禅堂はどこも貧しく、関係者の熱意がないと成り立ちませんから。一部にはお金持ちの支援を得て、さまざまな設備を整えている所もありますが、例外的です。ほとんどの禅堂は電気代も払えないような状況の中、ただ関係者の熱意だけで成り立っています。
だからこそ真剣に修行する。
◆西洋人は生活様式の違いから、正坐さえ満足にできない人も少なくありません。そうした人々が坐禅をするには、相当の熱意と努力が要ります。結跏趺坐の姿勢を取ること自体に真剣さがあるのです。
率直に言って、アメリカ人参禅者から見た日本仏教の現状はどうですか。
◆私は日本の僧堂でも修行していたことがあるのですが、そこで日本人の修行仲間からこう言われたことがあります。「シャインバーグの取り組みようはクレイジーだ」と。お寺に生まれた人でしたがね。
われわれは彼らと違い、ライセンスを取得するために修行しているのではありません。また先ほど言った物質的、身体的事情から、本当に火の玉になって取り組まないと、坐禅をすること自体できない現実もあります。そこから意識の違いはどうしても出てくるのでしょう。
日本の禅僧の中には、そのうち禅の中心は日本から欧米に移ってしまうのではと語る人もいます。
◆興味深い意見です。ただし、私はそうした傾向を一般化することは危険だと考えています。アメリカ人参禅者の中にも不誠実な人間はいます。また日本のすべての禅僧が堕落しているわけでもない。事実、私を指導してくれた中川球童老師は、それは立派な日本人でした。
思い出を語っていただけますか。
◆信心深いとか、仏教の知識があるとかより、まず純粋な人でした。何よりも坐禅を重視し、仏様の教えを口頭で説くことはほとんどありませんでした。また日常の生活を非常に大事にしていました。自分の手で掃除をすることが大好きで、ほかの人が先に禅堂の掃除をしたら機嫌が悪くなるような人でした。
そうした人柄に引かれたわけですね。
◆若いころから東洋思想に興味はありました。しかし私は禅を学んだというより、中川老師を学んだのです。彼がいなければ、ここまで禅の修行をすることはなかったでしょう。私だけではない。中川老師がいなかったら、ここまでアメリカに禅が普及したかも疑問ですね。
欧米ではキリスト教の聖職者が坐禅をするなど、必ずしも禅と仏教信仰が結び付いていない印象もありますが。
◆中川老師はその辺りには寛容でした。むしろ「仏教を知らない方が坐禅するのにいい」と。変に知識があると、逆に本当の禅から遠ざかると言うのですね。
ある日本人僧侶が中川老師の禅堂へ来て修行していたことがあるのですが、「彼はたくさんの考えを持ち過ぎていて駄目だ」といつも不満げでした。その人は日本では優秀な僧侶とされていて、今ではある大きなお寺の住職なのですが、中川老師は否定的でしたね。
今では私もその考えがよく分かります。いつもキリスト教徒の参禅者と、仲良く坐っていますよ。
欧米の禅については、カルト的な側面があるとの批判もあります。例えば坐禅と麻薬を併用するなど……。
◆重要な指摘です。また禅の指向する「無」「空」といった概念から離れ、具体的な超能力などを求める傾向にも批判がありますね。
そうしたものは無知から来る行動です。しかし禅とは、自分が無知であることを知るところから始まった教えなのです。きちんとした指導者がいれば、必ず解決する問題です。
また禅に限らず、すべての宗教はカルト化する危険性を持っています。しかしその危険よりはるかに危険なのは、宗教のない社会が到来することです。それははっきりと言い切れます。
シャインバーグさんが禅に求めるものとは何でしょう。
◆純粋なることです。中川老師がそう生きられたように。東南アジアの寺院に行くと金ピカの大きな仏像などを見ますが、ああいうものは本当の仏教ではないと彼は言っていました。
人間の苦しみは日本にもアメリカにも平等にあります。ですから禅もそれを解決するために、日本にもアメリカにも平等にあるのです。
ただ日本という国には本当に感謝しています。禅という伝統をはぐくみ、中川老師のような方を輩出してくれたことに対して。
『矛盾だらけの禅』の原著出版から十五年。その間で、何か自身に変化は。
◆何も変わりません。私は永遠に初心者で、今も変わらず愚直に坐禅するだけです。ただ、十五年前より少しだけ誠実になれたかな、とは感じています。
『矛盾だらけの禅』は定価二、六二五円。清流出版(電話
| ■ スイスJacek & Ediths |
| Date: 2010-07-27 (Tue) |
Dear Hojo-san, dear Fumiko-san
A month ago you have left Switzerland after a few days stay. We spent together very nice
and unforgettable time which we will keep in our memory.
In the meantime we have received from you two DVD’s and a
very beautiful photo book with Hojo-san’s calligraphy on an exposition. Many thanks for everything. We followed on the
DVD your trip to Europe with a great interest. We were able to see your friends in Germany in various situations.
We
would be happy to meet you again in future and wish you good health and all the best.
Best regards from Winterthur
Jacek & Edith
| ■ 守洞春版画と拙僧の展示会 |
| Date: 2010-07-25 (Sun) |
高山市出身の版画家守洞春(もり・どう・しゅん)さん(1909〜85)の法華経の教えを彫った11枚の連作版画が、同市上岡本町3丁目の画廊「三井堂」で展示されている。市内正宗寺の元住職原田道一さん(74)の所蔵品で、良寛の言葉を書いた原田さんの書も並び、「道」を求め続けた二人の願いが、作品を通して響き合う。6月8日まで。
原田さんは「自他を比較する無益な争いを脱し、心穏やかな世界に向かう道を示す連作のメッセージを広く知ってほしい」と展示を思い立った。
版画は、法華経の中の比喩品(ひ・ゆ・ぼん)と称される教えの一章。苦悩の絶えない普通の人の世界を、炎を上げて燃える居宅に例えた「三界火宅(さん・がい・か・たく)」の言葉はこの比喩品にある。経典に登場するムカデやゲジゲジ、ヘビ、タヌキ、さらに夜叉(や・しゃ)や鬼が、守さん流に場面ごとに彫ってある。
ゲジゲジやヘビは、他を顧みない人を表し、火宅から逃れられずにやがて焼かれる。一方で子どもらは、真実の牛車に乗って救い出され、平安な仏の世界へとたどり着く。
守さんは、多色刷りの版画で独自の境地を切り開き、あの棟方志功(故人)をうならせた。そういう中ではこの連作は題材も含め、異色で、最晩年に仏の道を求めた時期に制作されたものだという。
原田さんは、「雪・月・花」や「道」「花」「無心」などの文字を書にした。敬愛する良寛の言葉を書いた軸や色紙もある。例えば「風はきよし/月はさやけし/いざともに/踊り明かさむ/老のなごりに」や「花無心にして蝶(ちょう)を招く」などの言葉は原田さんが望む生き方でもある。
「字を書くと自分が解放される」と原田さん。入場無料。問い合わせは三井堂(0577・34・1421)へ。(中沢一議)
| ■ 日本の公文 ドイツの教育に出会う |
| Date: 2010-07-01 (Thu) |
ゆとり教育」先進国ドイツは日本の問題を先取りしていた!ドイツで公文式教室を開いて18年。
学力低下が叫ばれる国で22カ国の子供たちを教えて見えてきた、新しい時代の教育論。
ドイツDUSSELDORUFでであった方 フックス 真理子さんの著書
1 公文、ドイツに上陸
2 異変発生
3 ピザショック
4 対話に学ぶ―ドイツの教育から
5 身体で学ぶ―日本の教育から
6 共生の教育へ
7 グローバル時代の教育支援
8 ユニバーサル・デザインの教育とは
| ■ 返信 |
| Date: 2009-09-12 (Sat) |
原田道一老師様
三心通信の拙文をお読みいただき、ご丁寧なお便りを頂戴しましてまことに有り難う
ございました。
こちらの方こそ、励ましをいただきました。
アメリカでは、(椅子とテーブルの生活が殆どの、日本人も今ではアメリカ人と余り
違わないのかも知れません。)椅子でしか座れない人々、それでも坐りたいという
人々を拒絶することは出来ないと思います。座蒲の上に足を組んで座らなければ坐禅
でないと言い続けるよりも、椅子での坐禅としての坐り方を功夫してみることも良い
のではないかと考え始めております。
東堂様になられたとのこと。
太石さんがミネアポリスに来られたのはもう10年以上前のことなのですね。立派なご
住職になられたことと存じます。
どうぞ宜しくお伝えの程お願い申し上げます。
一度おたずねしたいと思いながら、こちらのスケジュールとのかねあいで、日本に
ゆっくりと滞在することは出来ず、お世話になりながら、お伺いできないで居る方々
が大勢おられます。
当地では、気の早い胡桃の木はすでに落葉を始めております。リスたちが忙しく、冬
の食糧確保のために胡桃を集めて居ます。
政権が変わって、日本がよりよい方向に向かえばいいのですが。外から見ていると、
お祭り騒ぎだけで、自民党の政権とたいして違わないのではないかという感じもして
おります。
どうぞご自愛の上お元気でお過ごしくださいませ。
次の機会にお逢いできますことを楽しみにしております。
奥村正博 九拝
| ■ 拝啓 奥村老師 東堂 原田道一 |
| Date: 2009-09-12 (Sat) |
ご無沙汰したしています 五月に退董して、なれない東堂を始めました
三ヶ月を経過し、少し整理がし易くなりました
本日 奥村老師の結婚二十五年目のスエーデンへの旅の記録 ,<八月の二十五日付き> を拝読し
椅子と坐禅に関する見解を拝見して、大変大切な問題を提起されています
私もかつては、どんな方にも足を組むことを指導し、参禅者には椅子を使用しての坐禅はしていません。
しかし、昨年秋に来山されたドイツの医療の先生が、正座が出来て、参禅に一週間近所の小屋から通われました
終わって帰国後、ドイツ語でドイツ人が書かれた「胆」haraという著書の日本訳を送っていただきました
只管打坐を学びながら、正座の研究をされていて、今秋、数名で來山されます
日本のお寺の中が、高齢者でいっぱいになり、椅子を用いる法要が普通になっています
かつてご縁があった高山に中村久子という女史がおられました 達磨娘と呼ばれながら 聞法の生涯を終られました
障害という事実と向かい合う生活で、仏道を学ぶ方法についての、告白として奥村老師のお説をもっと聞いておく必要が
あります 内山老師の御説き下さった一心称名の念仏、など 禅と念仏 一遍上人が偲ばれます
九月にようやく、上京し、千葉の吉村東堂老師 椎名宏雄老師にお目にかかります この辺のことを 聞いてみます
本日は 久々に 奥村んきよ老師のお姿を偲んで、元気を取り戻しています 突然でしたがネットのお陰で
お便りが出来ました スエーデンの大学に席を置かれ、大阪大学の客員教授された クリスチャン 二グレン先生は
「大衆芸能」の研究で日本に来られて参禅され、現在は研究のため、どこかの国におられます
私の元で得度をされています 遠い国スエーデンがちょと 近くなりました 八月三十日 国政選挙の日 夕
奥村老師様 原田 道一九拝
| ■ 三心通信 2009年6月、7月 |
| Date: 2009-09-12 (Sat) |
また2ヶ月に一度のペースになってしまいました。申し訳ありません。
6月の第1週、3日(水曜日)の夕方からから7日(月曜日)の午前中まで5日間の摂心が
ありました。京都にあった頃の安泰寺と同じ差定で、一炷50分の坐禅を14炷、坐ります。
ただ安泰寺と違う点もあります。椅子に坐っても良いこと、どうしても必要な場合は1炷か
2炷、適宜自分の判断で休憩を取ってもよい事です。
安泰寺では、安居者は病気その他の特別な理由がない限り摂心中一炷たりとも勝手に
坐禅を抜けることは許されていませんでした。外から通ってくる在家の人々でさえ、お寺
の中にいる限り、坐禅を休んではならないという不文律がありました。また、坐禅の場所
に椅子を持ち込むこと自体、想像も出来ないことでした。私の記憶が正しければ、安泰寺
には椅子はたった一つしかありませんでした。それは内山老師が提唱をされるときに使わ
れていたもので、その他の用途に使われることはありませんでした。最近では日本でも
椅子坐禅が勧められるようになりましたが、私が安泰寺にいた頃は、坐禅というのは、
道元禅師が「普勧坐禅儀」に書かれているように、坐褥、座蒲のうえに、結跏趺坐か
半跏趺坐で坐ることで、椅子に坐ることも坐禅と呼ぶことが出来るなどとは想像も出来
ないことでした。
私が安泰寺で坐禅の係りをしていたとき、1973年か74年だったと思いますが、摂心が
始まる前の日、一人のアメリカ人が摂心に参加したいと云ってやってきました。当時は、
多数の外国人が毎月参禅しておりましたので、別に珍しいことでも何でもなかったので
すが、ただ、足を組んで坐れないので椅子に坐りたいというので、このお寺に椅子はな
い事を説明しました。すると、玄関の上がりかまちを指さして、「此処に坐れないのか。」
と聞かれました。「人が出入りするところだから、坐禅の場所ではない。」といって、気の
毒だったのですが、帰ってもらいました。その時にその人が、「将来、坐禅したいけれど
も足を組んで座蒲に坐れない人が沢山来るだろう。その人たちのことを考えておいた方
が良い」と云うようなことを言い残して立ち去っていったことを覚えております。その時の
私は、坐蒲の上に足を組んで坐れないと言うことは坐禅が出来ないと言うことだろう、そ
ういう人がどうして摂心に来たがることがあるのか、といぶかしく思いました。
1875年にアメリカに来てバレー禅堂にいた頃、やはり安泰寺と同じ差定の5日間の摂心
を毎月しておりました。内山老師からの、人やカネを集めることを考えず、自分たちが坐
り抜くことだけを考えるようにとのご指示に従って、宣伝もせず、摂心の参加費も取らず、
来たい人は何時来て、坐れるだけ坐って、いつ帰ってもよい、と云う方針で、自分たちだけ
が坐る事を第一に考えておりました。そのころはまだ、アメリカでは所謂、禪ブームの
最中で、大きな禅センターでの摂心には、何十人もの人が坐っているような記事や写真が、
禅センターから来るニュースレターにはいつものように書かれていました。それらの禅セン
ターで坐った人たちも何人かバレー禅堂の摂心に来ましたが、5日間全部坐れる人が少な
いことに驚き、また拍子抜けしました。禪ブームで大勢の人が坐禅をしていると言っても、
まだまだ底が浅いものだと感じました。それと同時に、一つの疑問も感じました。マサチュ
ーセッツ州西部の、森の中の小さな禅堂で、自然だけを相手に坐禅や作務に専念出来る
ことは、自分の修行としてはとても恵まれたことで、坐禅の場所の創立のために力一杯
働けること、毎月坐禅だけに専念する摂心ができることを、厳しくはありましたがとても
有り難いことだと感謝しておりました。そのことは今になっても変わりません。バレー禅堂
での経験がなければ、今までアメリカの人たちと一緒に坐禅を続けることは出来なかった
ことでしょう。
しかし、殆どのアメリカ人がしたくても出来ない摂心を、日本ではなくアメリカで、日本人の
雲水3人だけで、続ける事にどういう意味があるのだろうか?すでにこの摂心が出来る
ほどに坐禅の経験があり、仏道修行に堅固な志を持ち、信心決定している人たちが訪ねて
くるのを待ち、そういう人たちだけを相手にするというのであれば、日本の山奥のお寺でも
出来るのではないか?というのが私の疑問でした。達磨大師の「面壁九年」や、道元禅師
の「一箇半箇の接得」などの表現から言ってもそれが禪の伝燈の中の一つの行き方である
ことは確かなのですが。
三心寺を創立するとき、修行を水で薄めて、多くの人を集めようなどとはつゆほども思いま
せんでしたが、もう少し間口を広くすることは出来ないかと考えました。
坐禅堂の中で、椅子で坐ることも殆どのアメリカの禅センターでは当たり前のように行われ
ています。1993年に再びアメリカに来て、ミネアポリスの禅センターで教え始めていた頃にも、
椅子に坐ることが本当に坐禅と呼べるのか、私の中では疑問でした。ただ椅子にしか坐れ
ない人たちを拒絶するのはよくないだろうと、いわば黙認しておりました。そのころ、ミルウ
ォーキー禅センターで指導されておられた秋山洞禅さんが、膝の手術をされ、坐禅の時、
暫く椅子に坐っておられましたので、「椅子に坐るのも坐禅だと言えますか」と、不躾な質問
しました。洞禅さんが、「椅子に坐るのも坐禅だと言えると思う」と答えられましたので、その
時から「椅子坐禅」も坐禅だと認めることにしました。然し、自分自身が坐禅堂で椅子に坐る
ことになるとは夢にも思いませんでした。
2,3年前の眼蔵会の少し前に、持病のぎっくり腰がでて、とても座蒲の上には座れませんで
した。しかし、中止するわけにはいかず、坐禅の時と講義の時、椅子に坐りました。それ以前
には、1時間半の講義の時にも半跏趺坐で坐って話をしておりました。ときには、質疑応答が
長引いて2時間になることもありましたが、問題はありませんでした。その眼蔵会の直後に、
ピッツバーグでの週末3日間の摂心があったのですが、一年前から予定を組んであったので
キャンセルするわけにはいかず、これも3日間椅子に坐りました。足を組んで坐るのとは矢張
り違います。特に上半身の体重を腰と尻だけで支えますので、安定感が十分でなく、最初は
随分ととまどいました。しかし、3日間工夫しながら坐ってみて、「これは坐禅ではない」と言う
ほどの根本的な違いがあるわけでもないと言うことが分かりました。ただ、足を組んで坐るこ
とも出来る時にも椅子に坐りたいかというと、そんなことはありません。足を組んで坐る方が
遙かに安楽です。私にとって椅子坐禅は、足や腰の痛みで足を組んで坐れないときの急場し
のぎにはなるという程度です。因みに、昨年膝の痛みがきつくなってからは、1時間半の講義
の時には、いつも椅子に坐るようにしております。
アメリカで坐禅をする人には、長年坐禅をしてきたけれども、年を取って椅子にしか坐れなく
なった人、ひざの故障で手術をして坐れない人、足腰の筋肉が固くてどう見ても足を結跏や
半跏には組めそうもない人、それでも、坐禅をしたい人が沢山あります。その人たちを坐禅
堂から閉め出すことは矢張り出来ません。
私も、膝の痛みが進んで、5日間の摂心が出来なくなったらどうしようかと昨年くらいから考え
ざるをえなくなりました。私には、内山老師のように、坐禅が出来なくなれば「南無観世音」の
称名で、と言うことも出来そうにはありません。足を組んで坐ることが出来なくなれば、積極的
に椅子坐禅に取り組んでみようかとも考え始めています。
6月は、首座法戦式などがあり、あっという間に過ぎ去ってしまいました。21日に私は61歳になり、
老人の一年生として、ようやく、五十歳代とは違った修行のペースが飲み込めてきたように思
います。7月1日から6日までの禪戒会で今年の3ヶ月の夏期安居も無事に円成しました。最後
の日に受戒があり、3人の人が菩薩戒を受けて在家の仏弟子となりました。今回で三心寺創立
以来5回目の夏期安居、多くの人々のご支援と、参加者の真面目な修行で続けてこられたこと
を何よりも有り難く存じております。
7月11日
奥村正博 九拝
| ■ 一期一会の旅 吉村 椎名師に相見 |
| Date: 2009-09-12 (Sat) |
9月七日午後 東京永平寺別院長谷寺僧堂に安居、修行中の雲水さんを訪問、厳しい修行に耐えている毎日、ちょうど
昨日が、半年を終わったという。六人が三月一日に入門、二名が、途中で下山、二名が半年で帰山、二名がこれから本格的に修行に励む。大内氏による大観音を拝して、東横インに行き、井田氏と久々の対話、引き続き臨床心理士エス女史にお会いする
9月八日千葉、八千代台の吉村老師 椎名老師に相見の予定
9月8日朝 快晴 遊歩の後 後楽園小石川区役所前東横インを7時半出発。西船橋から八千代台駅に到着
長福寺に電話 早々に迎えの車が到着。90才の長福寺東堂 吉村武雄老師ホンダの車でお迎え。
まず驚く。
長福寺山門を車が通過。本堂前に停車。永平寺七十六世秦 慧玉禅師の揮毫の額が目に入る。
本堂にて参拝の後 諸堂拝観 地下坐禅堂に案内される。 曹洞宗参禅道場の看板がかけてある。
特筆すべきは、西望先生の作、秦禅師の塑像がある。私が 永平寺に上山の頃の後堂が秦禅師だったので、
なつかしいお姿。
深い深い因縁によって、ここに安置されていることを後 で知る
東堂老師のご配慮で、永福寺へ案内される。霊園の中を車で走る。やがて大きな本堂が見えてくる。
毎朝、二つのお寺を往来される東堂老師は、朝両寺の本堂で朝課の後 この墓地を毎日、住職さんと順拝して
読経されているとお聞きした。朝課だけの拙僧は低頭。
龍泉院様拝登
整えられた境内を通り。慧玉禅師の「龍泉院」の扁額が立派に輝く。
椎名宏雄老師の案内で本堂へ。
椎名老師がタクシーを用意下さって、安房勝浦へ。ホテルにご案内を受ける。
房州海の銀界の見える部屋に宿泊。懇親の夜、
9月9日朝 日蓮上人ゆかりの地、鯛の浦にて遊覧にて鯛に面会。
誕生寺、清澄寺、巨木の古代杉がいい。旭日を拝む日蓮上人の合掌像の高台に上る。
珍しい駅弁を車中でいただき、特急に帰路に。吉村老師が東京駅までお送りくださる。
両師に感謝。
| ■ 東堂百日 その2 |
| Date: 2009-09-02 (Wed) |
日韓交流のほんとの発起人藤井昌子さんには二人の女性の秘書官がおられ、坂本さん 笠原さん共に一人暮らしで、同じ高山の中日文化センターでハングル語を学習されていて、
今回の韓国『天のとり 地のとり』伝統芸能集団のプロデュサー朱さんとの交流があって、今春沖縄での日韓交流にも、視察に笠原、坂本両氏が参加されている。用意周到のブレンをお持ちの
藤井さんも、どのように地元の皆さんに呼びかけるか困っておられた。
今回の交流会は、高山市国際協会、日韓国際交流協会の支援、ならびに高山市の支援を受け、 藤井さんの所属するフラダンス,気功、韓国語の会参加の方で結成された
アンジェラスの会三十数名の協力を得て実現した。新聞報道を転載して、報告に代える。
| ■ 東堂の百日 その1 |
| Date: 2009-08-29 (Sat) |
東堂の百日
その1
晋山式が終わるとすぐに上京し、藍綬褒章を授与された。
家内同伴にて、皇居に呼ばれた。お疲れの天皇様を拝して
恐縮した。
帰ると、すぐにsotozen-internationalkの福島師から「GATE』上映のお勧めがあった。
二月七日朝永平寺で相見した大田監院老師が出演のドキュメン映画長崎原爆から六十年目
の2005年の夏、被爆地 長崎から原爆の火をもって北米最初の原爆実験地トリにテイへの日本僧の
行脚の物語である。
飛騨車座会議主催で 場所を高山市東本願寺別院庫裏ホールをお借りし、五月二十三日を上映の日とした。
チベット仏教の林師と別院前の浄土真宗真蓮寺 三島多聞師の協
力にて前日までにチケットの前売り、会場の設定をした。
各新聞社とFM放送を使って、ともかく入場者を満杯にした、高山在住の被爆体験者 桜井幸子女子八十歳の講演も
前座に設定し、映画監督マット テイラー氏もお昼には高山に到着。記者会見にてテイラー監督は、詳しく映画の作成の
過程を説明した。一日三回の上映は、監督の講演の内容が夜になって最高潮になり、映画と講演が一体の企画で成功した
監督は高山で宿泊を希望し、知人のホテルを予約した。林師は渡米の準備のために早退した。三島師は、奥さんの病態が
良くないと、映画が終わり次第退席した。二十八日奥様は逝去された、複雑な心境で真蓮寺での奥様の通夜におまいりした。
さて、六月に入って、待っていた行事は、日韓芸能文化交流会の準備であった。
私の寺の向かいの坊方の地に{ LUFT HIDA}というドイツ ミュヘンスタイルのレストランが出現したのは昨年、たまたまこ散歩コ−スになっていて、和尚がお店に寄ったことから、今回のイヴントの主唱者 藤井昌子様との出会いであった
「高山に18年住んでいるけれど、私が夢に思っている日韓の友好の企画を役所、国立青年の家は聞いてくれないので困っている。」
八十才の元高山日赤病院の院長の奥様女性の訴え。
即座には協力の約束。 七月の下旬に韓国伝統芸能の集団「天のトリ 地のトリ」の皆さん三十名が高山入する予定になっている。
あわただしい日程で当日を迎えることになった。
| ■ 良寛の俳句 英語翻訳 |
| Date: 2009-08-21 (Fri) |
Terebess Asia Online
(TAO)
良寛の俳句
Ryôkan (1758-1831): The Complete Haiku
English version by Gabor Terebess
A Japanese monk of the Sōtō school of zen during the Edo period. After receiving a Confucian education (see Confucianism) in his youth, he turned aside from the path of governmental work laid out by his father and entered the Sōtō order at 18. This was a period in which, under the influence of Chinese Ts'ao-tung monks, the Sōtō school was undergoing a wave of reform, and many were advocating strict regimens of meditation and the study of Sōtō founder Dōgen's works. Ryōkan fell in with this reformist programme, and studied with several strict and uncompromising masters. In 1792, he received word that his father had travelled to Kyoto to present a work to the government denouncing political intrigue and corruption, and had then committed suicide, apparently to call attention to his protest. Ryōkan arranged the funeral and subsequent memorial services, and then set out on religious pilgrimage for several years. Only in 1804 did he settle down on Mt. Kugami, where he stayed for twelve years. He is remembered for the depth of his enlightenment that manifested in the spirit of acceptance and equality that he showed to all, from officials to prostitutes. He played with children, composed poetry in praise of nature, was renowned for his calligraphy, lived in extreme simplicity, and showed love for all living things to the extent of placing lice under his robes (see cīvara) to keep them warm, allowing thieves to take freely from his possessions, and letting one leg protrude from his mosquito net at night to give the mosquitos food.
Buddhism Dictionary
| ■ 東堂前夜 その3 |
| Date: 2009-07-08 (Wed) |
いつの頃からか、曹洞宗宗務庁宗報にて「折々の法話 永平広禄」の連載が大谷哲夫先生によって始まった。ちかずき難い道元禅師に親しく、まみえる機会をいただいたのは、以下の(鎌倉下行)の場面「明得、説得、信得、行得」の処であった。
私は、大変感動した。道元禅師の立体像がそこに現れて来た。私の苦手の語録を丁寧に翻訳し、尊厳をもって、深く解説される先生のこの説得力、表現に引かれていた。
特に、日本に初めて始められた説法の方法、上堂と、正法眼蔵との重大な関連性、
なぜ、永平広録の研究が進まなかったか、その理由は。定まった底本なかったこと。
私が 正宗寺の侍者寮(客間)に道元禅師生誕八百年記念(平成十二年)揮毫した法語道元禅師が我が国最初の上堂宣言、「空手還卿 眼横鼻直」「卍山本」を掲げている。これは良く知られた法語である。しかし、筆者は、近年にいたって発見された「祖山本 永平広禄」を二題並列して紹介していることに、注目したい。
「始めて当山について、集衆説法す、上堂に曰く、依草の家風、附木の心。道場の最好は叢林なるべし、」「床一撃、鼓三打下、伝説如来微妙の音」
と言明した上堂を筆者は、道元禅師の理想とする叢林の在りようとしてふさわしいものと述べている。著者の「永平 広禄」の研究の成果として、二本の底本の研究が紹介されている。
著書 広禄に禅師の折々の季節観、天地自然との感応がすばらしい。道元禅師の生活の建長二年(一一五○)六月十日「晴れを祈る上堂」には、祈祷への言及がある。道元禅師の祈りの姿を見ることができる。人間味のある道元禅師に逢うことがができる。また、永平寺僧堂の生活、四季とそのときどきの季節の行事、出来事を取り上げ、それを縁として仏法、御仏の声を聞き、説く。「新年」「涅槃」「端午の節句」「冬至」「雪裏梅花只一枝」「深雪三尺雪漫」等在りし日の中国の先師 如浄禅師を偲び、師から資(弟子)への仏祖正伝の慧命を伝えている。
【明得 説得 信得 行得】について
《宝治二年(1248)戊辰三月十四日の上堂に曰云く、山僧、昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子のために説法す。今年今月昨日、寺に帰り、今朝、シン座す。この一段の事、或いは。人有って疑著す》
道元禅師の生涯において、鎌倉滞在、半年後帰山の翌日の上堂の法語は興味深い。
著者大谷先生の現代語訳を引用して、最後の明得 説得
信得 行得への導入として紹介したい。
『私(道元)は、昨年の八月三日に永平寺を出発して相模の鎌倉に行き寄進者波多野義重や子のために説法した。そして今月三日の翌日永平寺に帰り今朝約半年ぶりにこの座に登っている。この鎌倉行の一件について、ある人は「数え切れないほどの山川を越えてまで、俗弟子ために説法したという。そんなことまでするのは、まるで俗人を重くみて我々僧侶を軽く観ているようではないか」と私を疑っていることは充分承知している。
またある人は「私が諸君に、まだ説いたこ ない仏法が、かれら俗人のために説か
れたのではないか」と私を疑っていることは充分承知している。しかし、私がまだ説い
ていない仏法や諸君が聞いたこともない佛法などしてない。ただ、私は、鎌倉在住のかれらのために「仏法の因果の道理である善行をなすものは、一切の苦や迷いをはなれて悟証を開き、悪行をなすものは、苦しみの世界に落ちるという事実、すなわち、仏法には、善悪それぞれの因を修すれば、その各々の作用により、その各々の作用により、それに応ずべき果を感得いるという因果の道理があるから、迷いを投げ捨てて、悟りを得ることが一番重要である。」ということを説いてきたことなのである。 る。
さて、そのように説いてはきたのだが、そのことは、永平老漢(道元禅師)が、確
明きらかにさとり(明得)正しく十分に説明することができ(説得)、明らかに疑い
く身につけ信じ(信得)、さらにそのままをきちんと行じてきたこと(行)なのであ
さて諸君、この道理を理解したいと思うか。
私が永平寺をはなれての半年ばかり 鎌倉という俗世間にいた心境は、
まるで、孤独な月が虚空にかかっているようである
今日永平寺に帰ると、諸君ばかりでなく、山川草木すべて雲までが喜んでいて
私の山を愛する気持ちは昨日 山を出た時よりも さらに強いものがある』
「春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて冷ずしかりけり」傘松道詠
「折々法話の解説」大谷哲夫先生の見解
『道元禅師は その鎌倉行に対する痛烈な批判があることをご承知であるからこそ、鎌倉ではいかなる権勢、また、だれに対しても一切おもねて説法したわけではない。そこで説いたのは、諸君に常に説いてきた仏教の基本的理念である因果の道理のみである。あえて帰山翌日の「上堂」という場で直ちに判然と表明されたのである。
ともあれ禅師は、帰山後、鎌倉での半年を取り返すが如く、その上堂の説法底の句に示されるように、前にもました竣厳な生活に徹底されたのです。道元禅師の後半生は広禄に収録された上堂にあると考える、
叢林の住持人が、法堂上において、その会下の大衆に対して説示する上堂の説法形式は禅門特有の雰囲気と一種独特な厳粛さをともなうものである。中でも道元禅師は、先師天童如浄の厳格で厳粛なる上堂をそのまま日本に移入した。
時に、禅師三十七才宋から帰国されて九年を経過していた。この上堂を行うのに当時の日本では明確に開示されていなかった佛法を「正法眼蔵」の各巻、さらに僧堂における坐禅や所作進退など、あらかじめ示す必要が有り、九年を必要とした
禅師はまず、佛法の真実について「正法眼蔵」という教科書に書き表し、次に上堂という場で、さまざまな拈提をし、「畢竟如何」「しばらく如何」などと問いかけ試験をされ、払子で一円相を画いたり弟子にさとりを具現化して示し、さらに「良久」という時間的な間を演出して思考の場を与え、最後に偈頌をもってさとりを信に基ずく行に転化して実践をしているといえる。
また、禅師が鎌倉行化から永平寺に帰られて、その翌日の上堂で示されたように、明説(明らかにさとりを得る)説説(十分に説き得ること)信得(疑いなくしっかりと身につけておくこと)行得(行じきること)なのである。
つまり、説法は時節因縁に適応しなければ意味をなさない。
大谷先生から学ぶ新しい道元禅師参学への登山口
「正法眼蔵と永平広録」
浅学である私に新しい課題を頂いた而今の時節が、ありがたい。
かつて、鎌谷仙龍老師の摂心会、眼蔵会の提唱、京都崇仙寺での内山興正老師の眼蔵会にて参師聞法をさせていただき、法に対する親切々を戴いた。海善寺の吉田恵俊老尼様には、深い御法愛をいただいた。沢木興道老師は、いつでも、道元禅師の教えは、幽邃(ゆうすい)であると申されている。深くて奥が深い。
曹洞宗の在家教典「修証義」は、道元禅師の示された正法眼蔵を明治に編集された大
切な教典です。和漢混淆文のこの教典は、不思議な魅力があり、声を出して拝読すると
少しずつ道元禅師の佛法にちかずき、教えが伝わって、人生の指針になります。
修証義を再解体して、正法眼蔵の文脈に即して、一句ずつ解説した小倉玄照老師の「修
証義のことば」【誠信書房】は、誰にでも学ぶことができる貴重な良書です。
本師に学ぶ「明得 説得 信得 行得」について
「若き日の霊昌大和尚」の「正法眼蔵」の浄書についての記録は、後の参考資料掲載の
「正法眼蔵写本の書誌学的研究」をご覧ください。正法眼蔵の写本を尋ねて全国の二百
余ケ所の寺院に拝登された知る人ぞ知る団野老師の研究論文に明確に記されています。
団野老師は、研究の中で、「正法眼蔵写本の中に、一部報恩行としての正法眼蔵写本が
ある」と指摘されています。多分本師の浄書がそれであると判読できます。
正法眼蔵への信に基ずく行の実践として、道元禅師への絶対帰依の信による、祈り場
永平寺での、道元禅師との感応道交の時であったからです。
「信について」
信に基ずく只管打座の坐禅は、釈尊に帰依する道である。本師は、信を大切にした。
佛家 正宗寺に住まいする原田霊昌、鈴子夫妻は、信を、子供の名前に託している。
「佛法の大海には信を能入となし、智を能度となす」大智度論
「信は道元功徳の母」華厳経
幼いときから、父母から聴かされたお経である。
子供が生まれたら、父母は「信は道元功徳の母」をつけることに決めていたようである
結婚して佛法の大海に船出した原田霊昌、原田鈴子の誓願文であったのであろう。
長女から 「信」「道」「元」「功」「徳」と兄弟がいる。(他に妹の松美が戦時中、
一歳で病死)
信 大沼信子 北海道置戸町 大円寺 大沼信子 健在
道 原田道一 正宗寺 健在
元 原田元成 福島県郡山市元教員 健在
功 原田功平 第二次大戦中 四歳で病死
徳 原田徳明 東京都 朱雀都市建築研究所 所長 健在
私は、恩師 四国 仏教詩人 坂村真民さんとの御縁は深い。
四国から病体で飛騨の地にも足を運んで下さり「飛騨朴の集い」を支援下さった。
「疑えば花ひらかず
信心清浄ならば
花ひらいて
佛を見たてまつらん」
真民さんは求道の読書の中で、右の言葉に出逢う。この言葉のとりこになった真民さんは、命をかけて、探索が始まった。学校にあった大蔵経の中から、宝石のごときこの言葉を捜した。三回の探索でも見つからなかった。苦行のため、半盲に近い眼病になった。そんなある日、天啓のよにうに「大蔵経の偈の部十住毘婆沙論の中にあるのではないか」と直観した。開くとすぐ見つかった。猛烈な精進をされた方である。正宗寺に山門の入口左に、飛騨丹生川の小八賀川に注ぐ小川にあった子猫のような河石に「念ずれば花ひらく」右側には、大きな信州中野の石に「大宇宙大和楽」と真民さんの揮毫です。
最近、NHKハイビジョン日本こころの佛像百選に、正宗寺の傷だらけの素朴な円空佛が選ばれて、びっくりしている。円空さんの佛蔵のファンの緒川たまきさんが、正宗寺の薬師如来を抱っこした。この放送の影響で、円空作の薬師如来を抱っこしたいと来山される方が多い。
真民さんから、中国の古典にある「抱朴含真」という語を教えてもらっている。素朴なものの中に真実(まこと)が含まれている。朴を愛する真民さんは飛騨の山中の朴をわが友とする。私の雅号は朴竹道人である。梅原猛先生が、円空学会の長谷川公望先生と正宗寺の円空佛、薬師如来を訪ねられた折り作られた揮毫の色紙
「子供らと
遊び薬師は
傷だらけ」 梅原 猛
子ども達が連れ出し小木曽谷川で水遊びにつかわれた薬師如来、軽い桧の佛像は、傷
だらけである。味わい深い傷痕である。正宗寺の三尊佛「釈尊 文殊 普賢」の製作年
号が最近の、須弥檀の大修復で判った。元禄十五年八月五日、丁度三百年前である。
正宗寺の本堂が現在地に建立される以前に、「円空上人は、この飛騨 丹生川の里
に、仏像を刻んで、ばらまくように沢山作られました。庶民に仏像を通して、信心を植
えて下さっているのです」と長谷川先生は語って下さる。傷だらけの薬師如来の傷痕
は尊く、誓願の菩薩の姿である。拙僧も、傷だらけである。自らの傷跡を尊く拝んで
毎日を送りたい。暮らしたい。
朴の花 なほ 星雲の志 合掌
| ■ 東堂前夜 その2 |
| Date: 2009-07-08 (Wed) |
悼む人
昨年逝去された池田芳一氏は、哲学者としての人生を全うされた。感謝に耐えない。
「人はなぜか「風」にさそわれて旅に出る。風情といい風流といい、風雅といい、風狂
という。たとえ人為の世間において「非情」の謗りを受けようとも一所不住の旅に有り
続けたいとは、わが青春の見果てぬ夢であった。なのに拙くも愚かな「道行き」の末に
ふと気がついてみれば、浮世の義理に足取られ、住処を定め、「塵労」に汚れて、日暮
らしなりわいの業に励む身とは成り果てた。
かくなる上は痩せがまん、敢えてまた身を風狂に擬し、去りゆく日々をすべて旅の日徒
見なし勇んで、人生即旅の風狂に生きんと覚悟するこの頃である。
今の世に「行人」たらんとすることは、まことにむずかしい。しかし、生きとし生ける
もの皆その終わりに逝き急ぎ、行方も知らぬままに終末を迎えんとする時代、なほ自然
の歩みをひたすらに守り続けんと覚悟することは、わたくしに残された唯一の「行」と
思われるのである。」著書【1981年 自由都市社「旅行くものの哲学ー自立への道
標」あとがきの一部】
池田氏は、飛騨の民家を再構築して哲学の杜「行人舎」を設立した。精神の旅人たらん
とした氏は、一遍さんの生き方に心引かれていた。
芭蕉の「この道や行人なしに秋の暮」、夏目漱石の小説「行人」を慕い、平成方丈記を
最後に、絶学無為の間道人となったはずの氏は、先生、人生行路の最後の仕事、越中
飛騨境の古民家の再建に命を燃やし、完成した。哲学の杜「行人舎」部屋の名前が、哲
学者たちの名前。
天地自然を信じ愛した氏の本当の形見は、十年あまり植え続けた桜の園、
間もなく春、乗鞍の眺められる「行人舎」の岡に、桜が花をつける。形見の桜である。
近年毎日一万歩遊歩を自己管理の基本にしている私は、先日「行人舎」付属施設 富士山溶岩浴に時々入浴する。その帰り、池田直惠夫人にお会いして、亡き池田先生のことついて語り合った。先生という呼び名が、我々の愛称であるので、ここからは使用する。
先生は、生前随分自己流の哲学的実践をされた先生だけに、夫人が、残された「行人舎」をどう守っていくかに苦慮されていると推察していた.しかし、それ以上に夫人は先生の死を深く悼むでおられる姿に、人生の真実を見た感がした。会話の中で、夫人から小説「悼む人」のことを耳にした。書店で求めて読書中であると知った。私もこの本を手にいれ、走り読みを始めた。
たまたま、テレビに直木賞作家「悼む人」の作家天童荒太氏が登場され、とても穏やか
なお顔と言葉使いに感心した。
この小説は、人々の死を悼んで旅する人が主人公。どんな死者であれ等しく永く悼み
続けてくれる人、彼こそが、いまの世界において一番居てほしい人間だと、著者は云う
この作品のきっかけが、2001年のニューヨークの9.11事件、作者はこの事件以
上にショックが、10.7報復攻撃の日であった。あれだけの人が死んだのに、その死
を、みんなが本当に悼んだろうか。悼む間もなく、やり返し、いたずらに死者を増やし
たしかも、やり返した国は、キリスト教を信じている国、キリストは、そうゆう報復を
許さないはず。強い信仰を持つ国が、ほとんどの国民は、それをよしとした。反対した
のは実は被害者の遺族たちだった。ほかの先進国も、普段、人権や博愛的信仰を大切に
語るのに。この報復を黙認した。著者はいう、どんな人も差をつけず悼むということは
生きているどんな人も、区別せず公平に向かい合うこと、著者の七年間の現場取材と思
考の過程で、人間を懸命に生きた人を、どうやって覚えていくか。そして、三つの言葉
を見つけるのに五年を要したという。人間がどんな死に方をしようと、人間にとって大
切なものは
その人は@誰に愛されA誰を愛しB何をして誰に感謝されたか。
私は、ふと原田霊昌に焦点を当てて、本師は誰を愛し、誰に愛され、誰に何をして感
謝されたか、を考えた。民生委員活動はもちろん、感謝されないことまでも人に尽くし
たことを通して、人間の生き方を見せてくれた。
道元禅師は、
「仏となるにいと易き道あり、もろもろの悪を作らず、生死に着するず、一切衆生のた
めに、あわれみ深くして、上を敬い、下を憐れみ、 」
本年私は、越後の良寛様の終焉の歳七十三である。良寛様の愛は、広い。
天地を愛し、人を愛した。中でも、非人左助を悼んでの詩は、悼む人の詩である。
| ■ 東堂前夜 住職を引退東のお堂に入る |
| Date: 2009-07-08 (Wed) |
別れても わが行く先は ほかになし
祖師のみやまの 雪の故郷
熊沢泰禅禅師
平成二十一年二月六日 本師原田霊昌方丈の正当三十三回忌「入祖堂年回」のご案内を永平寺からいただき、正宗寺護持会長はじめ六名で上山、夕食(薬石)をいただき釈尊涅槃の報恩摂心会に参加、一般参禅者の方と共に僧堂外単に静坐する機会を得た。
本師十年あまり安居した永平寺での年回忌は、私にとっても忘れがたい摂心会である。昭和五十二年、一月末、二階の東堂寮で休んでおられた本師に挨拶をして、永平寺に向かう。摂心会が大切な永平寺での行事であることは十分承知の本師は、大切な刻を勤めることは、誰よりも知っていてか、やさしく眼差しで、送ってくれた。
大切な摂心会の終わる二月七日朝の僧堂飯台を終えて帰寮すると電話伝言「すぐ帰れ」であった。富山駅で高山線乗り替え時間にて公衆電話を正宗寺に電話したら、母が出て「今遷化した」と。
本師の側に侍使していた母が「いまに道一和尚が帰ります」と告げると一言「来るものは来る」これが本師最後の言葉であった。
永平寺僧堂の前にての年回焼香をしながら「永平高祖 祇園正儀」を噛み締め 拝聴拝語する。
「その上、出家は、塵労をいとい。 心を安め、念をやめて 平生を埋没すべけんや」
を僧堂の大衆で朗々と音声とともに、今日の僧私に対しての大切あふふるる警句である。
今年の冬は雪が少なく、屋根瓦がえらく黒く光っていた。静かな永平寺を後にした。
●明窓浄机
昨年春、正宗寺住職を太石和尚に譲ることを決め、方丈を開けることにした。
先代時代、小僧部屋である典座寮に戦前記憶だけでも五六人は居た。
開枕前には、隣の方丈部屋の襖の前で「お休みなさい」を弟子の頭からして床に入った。大正末期に完成した庫裏に前の庫裏の方丈にかけてあった額「有任」は裏に十三世大貴
和尚の筆跡がある。
正宗寺は、山を背に南向きに堂宇がある。庫裏の東に土蔵があり、その上手に納屋を
改造した倉庫があり、雑然と物置兼倉庫にしていたが、そこに新東堂の閑居をつくることにし、図書の整理をした。覚悟の上であったが、図書を三分の一にした。
1 寄贈(老人施設の図書室)2 廃棄処分 3 昨年まで冬季の間、暖房を入れて
坐禅堂として使用した土蔵の二階に納めることにした。太石和尚の提案と協力で書が納まり、まさしく蔵書となって、ほっとしている。
閑居は、皆様訪問者との相見、坐って書いたり、読んだりする大切な部屋である。
いつか岡山県成興寺住職に「非行の原因はだれにあるか」という教育講演をしていただいて、老師の著書にも一部のっているが、その時学校の国語の教師を対象に講演をいただき「明窓浄机」を学んだ。明るい窓と清らかな机。転じて明るく清らかな書斎のこと、いただいた中古の新品の机と老人用長椅子もあり、思いがけないご厚意に感謝。
| ■ 8月27日夜の夢 |
| Date: 2008-09-03 (Wed) |
個人記録 アルファ
8月27日夜の夢 1990年
鎌谷龍仙老師が、白い服(インド人が着るような)で現れ、私に話かける。
あんた達が書いていること、いろいろ知っているよ。あれはあれでいい。
8月27日小倉玄照老師からの返信。最近の時代について、接触不良時代論
8月28日サンフランシスコの鈴木俊龍老師夫人からのお便り、来年帰国する
8月28日本堂で掃除中、しゅみ壇から梯子と一緒に落ちる。左足の怪我
8月30日夕 小坂、奥田さん来寺、白い観音様の足に触れた夢を見た。「笑顔で」
と伝えて去っていった。
8月31日高山市菱川宅で、mariさんに会う。来年日本に来て、社会学、宗教を
を勉強したいという。
8月31日北米オレゴンのted harirsonから手紙。来春三月来寺の希望
〓 声帯に異常あり 春から声帯に異常あり、気にしながら、病院を避ける。
医者により、診断が、違う 高山市加藤耳鼻科、7月診断、きれいな声帯
高山市斎藤耳鼻科8月17日診断、声帯にポリ−プあり
手術せよ。久美愛病院を9月5日に手術の予約。
高橋三郎先生(金沢で開業)名古屋の藤田学園、保険衛生大学病院岩田先生を紹介し
てくださる。
8月26日午後名古屋でホテルに泊まり、翌朝名鉄「前後」駅下車バス利用病院へ
8時半病院受付する。「ここは大学病院ですから学生が立ち合うことがあります」と
表示あり。耳鼻科は来患でいっぱい。きびきびしたスタッフで処理していく。岩田先
生他、2名の先生が並んで診断。岩田先生は七十才前後に見える元気のいい先生、学
生をよんで「夏休み勉強したか、答えてみい」と名古屋なまりで学生にハッハをかけ
ながら、来患には、ていねいに、しかも、大切なときは、大きな声で、しっかり顔を
みて相手が、頭をふってうなずくまで説得される。やがて、私は若い女のインタ−学
生に呼ばれて、問診を受ける。順番がきて、私の顔を見るなり「声をつかい過ぎたか
」と問い、「そうです」答え、鼻、耳のチェック、喉をみて「大丈夫、切らなくてよ
ろしい、慢性の声帯疲労。皮膚がただれている」「声帯検査に来て見なさい」終。
| ■ 土と色のよろこび展 |
| Date: 2008-09-03 (Wed) |
土と色のよろこび展 協賛
『土を語る芸術職人たち』
場所 丹生川村 北方 正宗寺本堂 電 78−1080
日時 9月21日 午後7時から9時 コンサート9時半終了
出演者 挟土秀平 高山市【秀平社挟土組】 井本雅弘 丹生川村【社寺建築 棟梁】
吉島忠男 高山市【設計・建築家】 吉永太市 滋賀県【滋賀県元福祉施設長】
谷口いわお高山市【藁の大学学長】
第2部 タイトル 《お楽しみ ロックコンサート》投げ銭式
● バンド名は、ダミンです。●命のふしぎ、大切さを唄う ロック
バンド ダミンです ●メンバー3人のうち、二人が、丹生川村 大
萱に在住 ●全国各地で、コンサート活動をしています。
父の手−幼き日の思い出 土の詩と、土の宗教を
みのりの秋、稲田に立って わたしはこうして教育され
垂れ穂房なであげたもう わたしはこうして百姓になった
父の手は
千年の仏殿ふかく
合掌のおん手であった 永田喜代造 第二詩集『土の法悦』より
『ふうどピア』という言葉を発明した玉井袈裟男(松本市)風土舎創立宣言より
風土という言葉があります
動くものと 動かないもの
風と土 人の性と土の性がある
風は 遠くから理想を含んでやってくるもの
土は そこにあって生命を生み出すもの
君 風性のひとならば 土を求めてふく風になれ
君が土性の人ならば 風を呼び込む土になれ
原田道一和尚(禅アート研究所)の企画です。誰でも参加を歓迎し、会費無料です。コンサー
トは、投げ銭方式です。
飛騨丹生川の生んだ農民詩人、永田喜代造氏の第二詩集「土の法悦」を土台として土を、そし
て風土を語ってもらいます。
挾土秀平氏のルーツは、丹生川で、左官芸術家をめざし、新鮮に土を語ってくれます。全国的
な活動をしている彼のメッセージは、土と人間の基本的な問題を提起してくれるでしょう。
吉島忠男氏は飛騨の建築や文化について、造詣の深い日本の代表的建築評論家、伊藤ていじ先
生の愛弟子として、今や飛騨の建築の世界性を語る第一人者です。
特に伝統的な建築物の並ぶ、高山市内の日下部、吉島邸から下る大新町の町並みと丹生川村の
小八賀川の北側の正宗寺に至る街道の農村原風景を、飛騨の二大街道として、専門誌に紹介され
ています。
井本雅弘氏は、地元の宮大工として、活躍され、今回、村文化財として指定になった正宗寺本
堂・開山堂の改修工事をされている棟梁です。飛騨の匠の伝統について語っていただきます。異
色の農民、藁の大學を提唱の漆垣内の谷口いわお氏にも参加いただきます。
これらの専門家たちと共に飛騨の文化・風土に関心あるお方に集まっていただき、土を通して
の自己表現の感動を共有して、「土と色のよここび展」のお祝いとしました。
飛騨丹生川の皆様にとっても高い感性と、伝統的な農村生活の知恵の豊かさのふるさと再発見
の機会になれば幸いです。
主催 ■小八賀川の緑と文化を守る会 ■禅アート研究所