| ■ Japanese religion in Pari |
| Date: 2012-02-07 (Tue) |
s
宗教とは自分の内側に深く深く入っていくものだけど、同時に
布教の名の下に、外へ外へと広がっていくという性質も持っている。
パリというヨーロッパの中心において、日本から来た宗教たちは、
どんな活動をしているのか。リポートしてみました。
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今回はフランス・パリにおける日本生まれの宗教の活動状況をリポートしたい。
パリといえば文化的にはもちろん政治的にも経済的にもヨーロッパで最も重要な都市のひとつである。日本人の滞在者も多く、平成三年十月の時点でフランス全土に一万六千百六十四人、パリ市内に七千七十三人の長期滞在者がいる。当然、日本の宗教の支部もたくさんあるのだろうと思っていた。ところが、実際いくつかの教団を取材させてもらった結果、その勢力分布というか存在の仕方が当初予想していたのとはずいぶん違っていた。
ぼくが現地で確認できた限りでは、曹洞宗・日本山妙法寺・創価学会・天理教・PL教・世界救世教・晴明教・真如苑 以上八つの教団がパリに支部を持っている。 仏教ということで付け加えるならば、これ以外にチベット仏教の寺、ベトナムの仏教の寺がある。また「SANGHA MAGAZINE 」という立派な仏教雑誌が売られている。 この中で既成仏教の教団は曹洞宗ただひとつだということに注目したい。日本国内における仏教の立場を考えるとこれはさびしい数字だ。曹洞宗以外はいわゆる新宗教の教団だが、その活動もまた日本での規模とはかならずしも一致しない。日本ではほとんど知られていない晴明教という教団が、凱旋門のすぐ近く(日本で言えば銀座四丁目か)で活動しているのには驚いた。
もちろん教団の勢力をうんぬんするのはこの原稿の目的ではないのだが、単に資金力では計れない宗教の面白さを見るような気がする。
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禅は宗教を超えたもの
では各教団について順番に書いていこう。まずは曹洞宗の仏国禅寺Paris Zan Fu Koku Zenji。この寺はパリ十一区ケラー通りにあり、国際禅協会Association Zen Internationaleの本部もかねている。もよりの地下鉄の駅はバスチーユ駅。
寺と言っても、外見的には日本のそれとはまるっきり違う。コンクリート作りのビルの一階部分を改造して禅関係のグッズ売り場と事務所があり、その奥に七十平方メートルほどの道場がある。境内はなく、荘重な伽藍もない。だからはじめは「こんな場所でちゃんとした座禅ができるのか」と思ったのだが、すぐにそれはまったくの思い違いだと分かった。
ぼくが出かけた日は土曜日。午前十一時から座禅が始まるのだが、その三十分ほど前からぞくぞくと人が集まってきた。白人もいれば黒人もいるが、日本人はひとりもいない。みな無言で黒い袈裟に着替え、丸い座布団を抱えて道場へ向かう。
十一時ぴったり、道場の入口の暖簾が降ろされた。それぞれ壁に向かって結跏趺座の姿勢をとる人たちは全部で五十人ほど。年齢は二十代から五十代くらい。男女は半々くらいだろうか。遅れた人は廊下で座禅を組んでいる。
入口から右側に剃髪のフランス人の僧侶が三人座り、道場の中にも何人か剃髪の男がいる。最初の三十分の座禅のあいだ、動く者は誰もいない。みごとな姿勢だ。その後は経行、さらに座禅、フランス語の説法、読経(フランスなまり?の迫力ある般若心経)と続く。すべてが終わったのは十二時三十分だった。
この日は土曜日だったので場所を移して昼食会があった。二十ほどの男女が集まりワインの栓が抜かれた。
仏国禅寺の代表レイモン・レッシュさんによれば、この寺はもともと曹洞宗の弟子丸泰仙師が開いたもの。弟子丸師は朝比奈宗源師や沢木興道師の教えをうけたのち一九六五年単身パリに渡り、禅の普及に努め、一九八二年亡くなった。レッシュさんは二十年前に弟子丸師に出会い、現在まで座禅一筋に取り組んできた。道場では月曜日を除く毎日座禅が行われ、火曜日から金曜日までは一日三回、土曜日は二回、日曜は一回座禅会が開かれる。会員は五百人ほど(日本人はひとりもいない)。仏教徒もいるが、クリスチャンもいる。
「なぜなら、禅は宗教を超えたものですから」
レッシュさんはいう。
「禅とは宗教の根源です。あらゆる哲学の、英知の根源にあるものです。エゴを忘れ、ほんとうの宗教のこころを思い出す道なのです」
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みんな何かを求めてる
先ほど迫力ある般若心経と書いたが、レッシュさん自身も迫力のあるお坊さんだ。西洋人が丸坊主にすると、凄味が出る。さらに彼の言葉もまた、凄味のあるものだった。パリの片隅でこのような迫力ある座禅に出会ったのは驚きだった。現在ヨーロッパ全体では二百の道場があり、約五千人が座禅をしているという。
なぜこんなにも禅が広まったのだろう。もともと鈴木大拙師らの著書を通じて禅に関する知識はあった。しかしそれはどちらかというと文化、あるいは教養としての禅だった。ここでの禅はもっと生活と密着しているように見える。
この点を同席していた僧侶のニコラス・リシューさんは説明してくれた。
「このフランスで多くの人は、人生に満足していません。おいしいものを食べたり、きれいな洋服を買ったり、物質的には満たされていても、心の中では何かを求めています」
キリスト教は解決を与えてくれなかった。禅に出会う前はチベット仏教の修行をしていたが、どこかで不満を感じていた。それが座禅をしたとたん、変わった。
「釣りをしていて、魚が針にかかったときの感覚って分かりますか。あんな感じでしたね」
それまでの自分は狂っていた、と彼はいう。武器の輸出の仕事をし、普段の生活でも怒りやすく、セックスに貪欲だった。それが完全に変わった。今では禅は生活そのもの。生活のすべての局面において、禅が生きていると話す。ところでこれだけの規模の道場に日本人がひとりもいない、フランス滞在者で顔を出す者もいなければ、日本の禅寺から教えにあるいは修行に来るものもいないというのは、どう考えたらいいのだろうか。日本での禅の現状についてレッシュさんに聞くと、
「日本の禅はそのルーツを忘れて、セレモニーと化している。禅が、生きている者、修行する者のためではなく、死者のものになっている」
と手厳しい。まだ若いリシューさんに日本から先生に来てほしくないかと尋ても、
「先生?もちろん来てほしい。火星からでも来てほしい。それが、本当の法を伝えてくれる先生ならば、ね」。
たしかに今の日本の仏教は葬式中心。ぼくらも仏教にそれ以上のことは期待していないし、お坊さんたちも雑事に忙しくてぼくらの生活に口出しする余裕もないだろう。仏教が形だけのものになっていくのも当然だ。しかしこんな純度の高い禅がパリに残っているなら、これを逆輸入するというのも面白いと思う。
「ところで」
グラスを手にリシューさんはいった。
「ぼくのカミさんはギャラリー・ラファイエットというデパートで働いているんだけど、セールの季節だから日本人がたくさんやって来て、メチャメチャ買いまくっているといっていた。それこそ、新しい宗教みたいだね」
(WHO ARE YOU?18号より抜粋)
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| ■ 東西の禅 その2 d0r |
| Date: 2011-12-04 (Sun) |
東西の禅 そのA
正宗寺東堂 原田道一
今年三月十一日 東日本震災の中で
今年の曹洞禅の国際的出来事
1 宗立専門僧堂の安居 九月一日から、永光寺にて開催
昨年の熊本県聖護寺に続き国内で二回目の設置。宗立専
僧堂は 海外に在住する曹洞宗の外国籍僧侶を対象とし
三ケ月間の修行道場です
今回は、アメリカ、メキシコ、ポーランド、フランス、
ノールウエー、イタリア、オランダ、ブラジルの八ケ国から
十四人、このうち再安居は。五人でした。
2 国際シンポジュウム 十月四日 東京宗務庁にて開催
曹洞宗檀信徒会館・東京グランドホテルに於て、「進一歩
未来への道を開く曹洞禅」をテーマに、主催曹洞宗国際
センター、世界各地や日本国内から多数が参加して開催さ
れた。藤田一照曹洞宗国際センター所長の司会により、曹
洞禅の現状と未来についてデイスカションがおこなわれ、
北米、ヨーロッパの各総監は外国人で、日本語で現地の問
題点について熱心に語り、会場は、約二百人の聴衆に満足
を与えた。別室では各総監部の寄付された物品のバザーが
開催され売上金二十四万円が曹洞宗義援金を寄託された。
3英訳版「僧堂の行持」発刊 瑞応寺僧堂楢崎通元老師付記と
して聖護寺国際道場についての歴史と現在を記載
●待望の外国人修行者の弁道のテキストが英訳されました
聖護寺は、今を去る六百年前、南北朝時代、当時九州きっ
ての豪族武士団であった菊池一族第十三代武重公が大智禅
師に寄進したお寺。廃寺となって五百年、昭和十七年村上
素道老師が徒手空拳で入山され、古跡復興に尽力され、昭
和三十九年遷化。その後瑞応寺 楢崎一光老師。楢崎通老
師誓願、瑞応寺の支援により、僧堂が如法に行持されてい
る。かつて瑞応寺で修行された片桐大忍老師の嗣弟子北米
竜門寺住職ワインコフ彰顕老師念願の僧堂が今年七月に完
成、片桐老師待望の「僧堂の行持」の英訳の意義は大きい
○「和合僧の姿を実感」原田道一フランス禅苑 渡航報告
今年六月フランス・パリ郊外の禅道尼苑を訪ね、曹洞宗の
初代ヨーロッパ開教総監(現・ヨーロッパ国際布教総監)弟
子丸泰仙老師(1914〜82)の墓参を果たした。本年は
弟子丸老師の本師 大本山永平寺七十五世山田霊林禅師の
三十三回忌の年である。
私は、1979(昭和54)年に弟子丸老師から頂戴した
五条衣を大切に保存している。「正法眼蔵袈裟功徳の巻」を
丁寧に浄書して拙僧の名前を為書し、二人のフランスのお弟子
の助針名も記されている。又弟子丸老師が日本に帰国して永平寺
を訪問された折、数々のご苦労をお聞きしたのが昨日のように思われる。
航空便で長い文面と共に、ぜひ一度フランスへ来るようにとお招きの
言葉も戴いたが実現しなかった。山田霊林禅師は永平寺副貫主に就任
される前後に、北欧佛書贈呈の旅に出られ、バチカンなどを訪問された。
その際に弟子丸老師の嗣法が行われ、弟子丸老師がヨーロッパ開教総監に
就任されたと記憶している。
実は、本師原田霊昌は、兄弟子である山田禅師の永平寺副貫主就任の
お祝いに、ある永平寺の禅師様から戴いた大切な金襴絡子を拙僧に届けさ
せた。その絡子をフランスでそのまま、弟子丸老師に授与されたと思われる。
インターネットの検索に、若き弟子丸老師が派手な金襴の絡子を掛けた写真が
一枚ある。山田禅師らしい嗣法である。
禅道尼苑はお城のようなフランス伝統の建築物。玄関に弟子丸老師が自ら揮毫された「西天佛教第一道場」の看板と本人の大型写真、方丈遺品が大切に保存されている。
松宮ノブ子様(フランス滞在の音楽家)より、初期の弟子丸老師の活動の一面が分かる資料を拝読。玄米食の普及雑誌に掲載されている記事は大変面白い。日本に報告された初期の弟子丸老師禅の活動を知ることができる。
今回、六月の禅道尼苑の接心指導者は、スイスから来られたウォルフ慈光老師てあった。道場の運営はヨーロッパ国際協会で運営されている。年間を通して各種の禅修行のプログラムが組まれ、一年を通して修行者が絶えない。特に夏の7〜8月は人々が郊外に出かける夏休み。参禅の道場はどこも会員の参禅修行が盛んである。
サマータイムの七時、大道場を含む境内に振鈴がこだまする。洗面板が鳴る。堂頭(道場主)が僧堂に入り、止静(坐禅)に入る。道場の家風か、警策はニ連策が左右両肩に響く
維那、典座は大切な配役で当番制。フランス語で書かれた図書が並ぶ禅関係物品の販売所の隣にある部屋では、参禅者が静かに袈裟を縫っておられた。
帰国後、ネットで禅道尼苑の夏のスケジュールを見ると、日程がぎっしリ詰まっている。特に夏のバケーション(休暇)中の道場は「お袈裟を縫う期間」になっている。
これは得度のためにはまずお袈裟を縫って、それから師匠の得度を受けることが大切にされているためである。安名も日本語の墨跡で本師(外国人)が書いている。日本の僧堂で安居した外国人も多く、首座法戦式も日本語のまま通用する
両本山(永平寺・総持寺)で瑞世(一夜住職)を終えて晋山式を行う。このように国際師家の養成が地味な形で進んでいる。今回の訪問を通して、改めて内外諸老師の御尽力、宗務機関のご努力の積み重ねによって、ようやくお互いの信頼が築かれ、教団の和合僧の姿が見られるようになったことを実感した。
ヨーロッパの禅は、ここ数十年の間に、たくさんの人々が交流し、いたるところに黙々と坐る道場が誕生している。SOTO禅の名に恥じない修行が、ゆっくりと、しかし、確実に浸透し、在家の方々も信頼して参禅している。ある女性は「私は曹洞宗でなくてもいいのです。たまたま近くに禅の道場があった。自分の芸の道を学ぶために坐禅が私を導いてくれる。坐禅は私の師匠です」と言われた「シカンタザ(只管打坐)」を素直に学んでいる。
百聞一見に如かずで、かつての風評とは違う現実があった。「異文化間の文化のフイードバック現象」
◯阿部鉄生氏 国際禅交流会を主宰。世界の禅者へのガイド役。ミネソタで片桐老師について在家得度し、日本で修行
私は昭和五十二年の晩秋ミネソタに片桐大忍老師を訪問し北米の禅センターとの関係が始まった。当時日本からミネソタの大学に留学中の日本人学生数名が、片桐老師の家族に世話になっていた。最近、インターネットにて、片桐老師の在家得度をされた阿部鉄生氏を知り、お目にかかった。氏はミネソタ大学大学院にて博士号を習得帰国後、商社で特許技術翻訳等の英語翻訳を本業とされ、現在フリーで「英語の便利屋」の店主。在家居士で「金曜坐禅会」を東京にて開催されている。原田和尚にとっても海外の禅友との交流にも大切な存在。インタネット、ツイーターには、SOTO禅に関する案内が毎日書き込まれ英語圏の方にも親切な内容で鈴木俊隆老師、内山興正老師、片桐老師をはじめ、「ブツダのことば」の和英両用翻訳での紹介。瑞岳院の森山老師に随身されて坐禅をはじめ、日常生活のあり方を中心に真摯に禅門を叩く外国人のために、門戸を開いておられる。
今日、阿部氏の活動は、大切な日本発の「禅ガイドセンター」として自らの修行体験の立場から、外国人のために親切なガイド役を引き受けていて下さる。今後に期待したい。
●アメリカ東部の地を開拓の奥村正博老師のお便りより
「三心寺でも六月に、ブルーミングトン(北米インデアナ州)在住の日本人の方々と共同で、震災復興のための義援金を集める為に、ヤードセールがありました。多くの方々に様々な品物を寄附していただき、それの売上を二つの機関を通して日本にお送りしました。私達は静かに坐っているだけで、宣伝活動をほとんどしないものですから、日本人の人々にもブルーミングトンにお寺があるとはご存じなく、私達はこれ程たくさんの日本人が住んでおられるとは知りませんでしたヤードセールの後、坐禅に来られる人も何人か居られます。東日本の震災を通して、人類の滅亡は現実になるかもしれないという不安は感じられます。ましてや原発の事故は天災ではなく人災ですので私たちの生活の仕方を考え直さなければなりません。
三心寺の夏季安居は七月四日の受戒の式をもって無事円成いたしました。今年は首座を置かない安居でした。四月のリトリート、五月の眼蔵会、六月の坐禅会、七月の禅戒会と、その間の日常の坐禅、勉強、作務、絡子の把針など、例年と変わらず、熱心に行じ、充実した安居になりました。今年は六人の人が受戒して佛弟子となりました。そのうち四人がブルーミングトンに住む人達でした。
一昨日の日曜日ブルーミングトンにある、TMBCCに招かれて二時間講話をさせて戴きました。曹洞宗の伝統の中での坐禅と作務の意義について「普勧坐禅儀」と「典座教訓」を紹介しながら、話ました。このような形でチベット仏教と日本の仏教との交流がアメリカでなされてことを日本の人々に知っていただきたいと願っています。TMBCCは、インデアナ大学で教えておられたダライラマのお兄さんが創立され2003年に寺院が建てられました。その落慶式にはダライラマも来られ、約五千人が集まりました。実はその前日に三心寺の開単式をしたのですが、こちらは約二十人の参加者でした。膝関節痛がすすみ、昨年の六月の接心が終わった後これ以上足を組んでの接心が出来ないと観念しました。それ以来、坐禅堂で椅子に坐っています。老齢化社会での新しい修行の仕方の可能性を探っていくという課題を与えられたのだと考えるようになりました。《注、筆者記事の一部省略》★奥村老師は、自分の日本語のホームページ、「三心禅コミニテイの沿革」の最後にスタンフォード大学のカール・ビールフェルト教授の寄稿文「参加する仏教に向けて」を引用し「禅は過去にどのようなものであったかについて僧侶を訓練するだけではなく、禅は未来にどのようであるべきか、換言すれば、質の高い米国禅の「宗学」の発展を鼓舞する必要がある。知的高い禅仏教徒にふさわしい教育の必要性力説。」
奥村老師は私塾的教育機関としてのコミニテイについて、「より実践的に只管打坐の行に基づいた宗学の理解」を目指すと述べておられます。世界をリードする禅について、次回私も、再度考察したいと思っています。原田道一付記
| ■ 知野弘文老師 |
| Date: 2011-11-11 (Fri) |
原田道一 昭和52年から昭和55年にかけて北米に渡った私の記憶から、アルバムによってサンフランシスコにて知野弘文老師にお会いして、大切な写真を再度ここに、紹介します。 大変地味な老師で、私にお寿司を作って下さった当時の日本から渡った禅の老師は日本にはない静けさと、思索の禅者であった。鈴木老師を助け、老師遷化後サンフランシスコの近くの土地をもらって禅の道場を作ることを計画されていた 遅れてロスに来られた片桐老師は、ミネソタの奥地に行かれたがサンブランシスコ禅センターを援助されていた そのころ,スティーブジョブス氏をはじめ、少数の方と親しくされていたのであろう。 ともかく、サンフランシスコの、当時の曹洞禅のお坊さんは、現地の日本人の方々にも尊敬されていたことは確かである。懐かしい当時の北米のみなさんは、今は、遠いみなさんのことを思い出す日常である。老師のお隣が奥様 確か病院にお勤めであった ウォールの写真
| ■ 法元り |
| Date: 2011-11-08 (Tue) |
第11号 2002年12月
アメリカの曹洞禅(6)
「クィッター 曹洞禅の修行を中途で放棄した人たち―」
ジョン・マックレー
インディアナ大学
序
このところわたしは「曹洞禅の修行を中途で放棄した人たち」のことをしきりに考えています。ここでは彼らのことを「クィッター(quitter)」(quitは「離れ去る、放棄する」という意味の英語動詞)と呼ぶことにします。いまのところ、この「クイッター」たちをどう厳密に定義するかということについては結論を下していません。ですから、一週間とか一年間にかぎって修行を「中断」しているだけの人も、あるいはもうすっかり修行から離れてしまい二度ともどってこない人もともに「クィッター」であるということにしておきます。それと同様に、曹洞禅の「修行」という言葉が何を意味するかについてもまだわたしは厳密な定義を決めていません。このテーマに関して十分に豊富なデータが揃っていない今の時点では、あまりに細かい枠組みをはじめから決めてしまうのは賢明なことではないからです。ですからいまは、どのような意味においてでも自分のことを「『元』曹洞禅修行者」であるとみなす者なら、その人を「クィッター」と呼んでさしつかえないことにしておきます。
わたしが「クィッター」たちと話がしてみたいと思ったのはどのような理由からでしょうか。この問題について接触したほとんどすべての人はわたしがいったいどういうつもりでこんなことを調べているのかと疑問に思ったようです。そのうちの何人かは敵意とまではいかないまでも、少なくとも確実に困惑以上の感情をわたしに対して表明しました。
もしなにかがうまく機能するとき、その様子を知ろうとするなら、それがうまくいかないのはどういう場合かを吟味してみるべきだというのがわたしの考え方です。たとえば、空港の安全対策のことを考えてみましょう。そのシステムがうまく機能するかどうかを知ろうとするなら、それがどのようにして機能不全に陥るかを考察しなければなりません。一人の馬鹿な人間がはやく野球を見に行こうと焦って列からとびだしたがためにロサンジェルスやアトランタといった大きな空港で何千人という旅行者が締め出しを喰らうというのはまったく馬鹿げています。それは、ひどい機能不全におちいったシステムというべきでしょう。
安全対策システムは「しなやかさ」を備えたものでなければなりません。つまり、どうしても避けることができないような失敗の影響を最小限に抑え、システム全体が停止しないようにその失敗を限られた範囲でくいとめることができるだけの柔軟性をそなえていなければならないのです。こうしたやりかたでは、空港全体のあちこちにばらばらとチェックポイントを配備するのではなく、各関門、あるいはほとんどのウィングごとにチェックポイントを置くのです。そうすれば、突発的にどんな支障が起きてもそこでくいとどめられますし、より容易に問題が解決できるはずです。(こうした問題をさらに議論するうえで、チャールズ・C・マンが『アトランティック・マンスリー』2002年9月号に載せた『自国の不安全』という記事を参照してください)
さて、ではアメリカにおける曹洞禅の「しなやか度」はどうでしょうか?曹洞禅はどの程度に「うまく」失敗しているのでしょうか?曹洞禅をどう人々に提示するか、そして人々がそれをどう受容するかについては、いろいろと異なった仕方があります。とすれば、それらの異なった提示−受容の仕方において、それぞれどういう失敗の仕方が起きているのでしょうか?禅の修行を一時的に放棄したり、あるいはそこからすっかり離れてしまった人たちのことを考察することは、はたして曹洞禅の伝統を全体として理解するうえでの一助になりうるのでしょうか?
クイッターたちとの接触
こうした疑問に答えようとするとき、まず直面する問題はクィッターたちとどのようにして出会えばよいのかということです。ここまでクィッターをめぐる問題をとりあげてきましたが、そのとりあげかたはわたしが実際に経験したこととは,実は順序が逆だったのです。各地の禅センターに足を運び、そこで禅修行を始めて間もない人から、長年にわたって修行を続けてきている人までさまざまな人たちにインタヴューをしてきました。しかし、わたしはこれでは何かが欠けているのではないかといつも感じていました。つまり、かつてはそこにいたけれども今はもういなくなってしまった人たちのことです。そういう人たちに会って話を聞けないものだろうか?
いろいろな人たちにこの問題を切り出したところ、「インターネットを使ってみたらどうか」という示唆をしばしば受けました。たとえば、オンライン上のディスカッショングループであるThe Wellに参加してそのテーマについての対話を始めてみてはどうか,あるいはwww.zen-forum.comに登録して問題を提起してみてはどうか、いろいろな電子メールのディスカッションリストに掲示を出してみれば誰かが応答してくるかもしれない・・・といった具合です。
そこでそういうことをみんなやってみました。その結果がいまわたしのもとに集まりはじめているところです。そうそう、もうひとつ打つ手がありました。それは、この『法眼』誌の読者である皆さんにお願いしてみることです。もしあなたかあなたがご存知の誰かがこの問題に関してわたしと話して見たいと思われるならぜひjmcrae@Indiana.eduまで連絡をください。特に電話でのインタヴューに応じて下さる方を探しています。もちろん電子メールでコメントや洞察を送ってくださることも大歓迎です。(この場をかりて、前回の論文『学校における禅』についてのコメントや洞察をお寄せくださった方々にお礼を申し上げます)
クィッターたちと接触してみて
この問題についての情報収集はまだ始まったばかりですから、これから述べることは決して最終的な結論と呼べるようなものではなく、あくまでも経過報告にすぎません。これまでのところすでにかなりの量のオンライン上での対話を経験してきました。有益なものも少しはありましたがなかにはひどく腹の立つようなものもありました。www.zen-forum.com上での「禅修行」ディスカッションの参加者から届いた最初の応答はたいへんぞんざいで、人を小馬鹿にしたようなものでした。「曹洞禅を離れ去っていった人たちは、彼らがほかの何かを止める時の理由とだいたい同じ理由でそうしたのですよ。たとえば、妊娠したとか、自分にあわなくなったとか、修行の目的はわかったけど実際にどうしたらいいのかわからなかったとか、云々」確かにそのとおりかもしれません。しかしこの人のいうことはあまり有益ではありません。「禅の指導者にもっとも優秀だった弟子たちのことをきいてごらんなさい。途中で止めていったのは実はそういう人たちなんですよ」という人もいました。なるほど、そうかもしれません。しかしわたしにはあまりにも冷笑的な見方のように思えます。また別な人は「答えてあげてもいいけど、実はぼくはまだ修行を始めてさえいないんだよ」と書いてきました。こういう利口ぶったたわごとにはコンピューターで作った笑い顔が添えられていました。
こういう連中にこの主題をもっとまじめに考えてもらおうと、どういう経緯でわたしがこの問題と取り組むようになったかを説明するのになんども手紙のやり取りをしなければなりませんでした。この原稿を書き始める直前にもらったメッセージは、なんと大喧嘩をはじめてやるぞと脅しをかけるような内容のものでした。その理由というのはこのトピックとは何の関係もないものでした。インディアナ大学の「東洋の言語と文化学部」の同僚にこの話をしたところ、彼はTAOISM−Lという道教のことを学ぶ学生のための電子メールディスカッション・リストが解除に、文字通り完全閉鎖に追い込まれたいきさつを話してくれました。自称「道教徒」が学者たちにひどい喧嘩を仕掛けてきたからだというのです。
そのとおり。こういうわけでオンライン上の討論は完璧な調査媒体とはいいがたいものです。とはいえ、まったく駄目というわけでもないのです。少数とはいえ有益だと思えるような議論も確かにありましたし、それに加えて、仏教研究に携わる大学院生と教師に限って公開されている穏健なオンラインディスカッションであるH−BUDDHISMに問い合わせをだしたところたくさんの有益な応答が寄せられました。わたしの問い合わせを他のオンラインディスカッションリストにも載せてあげようといういくつかの応答もありました。ですからじょじょにではあれ、有益な情報収集のためのわたしのこうした努力は今後も少しずつ広がっていくだろうという感触をもっています。
期待と曹洞禅修行の「失敗」
まずはじめに「クィッター」と「不首尾・失敗(failure)」という言葉をわたしがどういう意味で用いているかをはっきりさせておく必要があります。わたしは、曹洞禅に関わるのをやめた人たちが必ずしも曹洞禅の修行において「失敗」したのだと言いたいのではありません。そうした行動上の変化は彼らにとってきわめて正しい選択であったかもしれないと認めるのに何のためらいもありません。
第二に、「中断/放棄」あるいは「禅の修行」ということばがどのように定義されるにしても、わたしはあらゆる形態の禅修行の中断/放棄をすべてふくめて考察していきたいと思っています。これは何度か見聞したことですが、外からでもそれとわかるような明確な禅の活動から足が遠のいたりあるいは完全にやめてしまった場合でも、それが当人にとってはかならずしも禅とのかかわりが終わったことにはならないのです。正式な禅の修行形態から人生上のそれほど目立たず控えめなテーマへと人生の焦点が変化することは充分あり得ます。各地でのインタヴューを重ねる中で、自分はいま、かつてやった集中的な禅修行とは異なる時期を過ごしているのだと述べる人たちに会いました。禅がそれほど表立たず、どちらかといえば隠れているこうした時期が何年も続くことがあります。近いうちにインタヴューしたいと思っている人々のうちの一人は、自分のことを「元クィッター(former quitter)」とよんでいます。長年にわたってまじめな禅の修行者であり指導者でもあった彼は、その後ある意味ではそこから去って別な人生の領域に移り、そして最近再び,曹洞禅の世界にもどって活動しています。この人のことは引き続いてお伝えしていくつもりです。
第三に、もし仏教が「アナログ宗教」であるなら坐蒲から去るのに無数の異なった仕方があるはずです。「アナログ宗教」というのは、(少なくともアメリカのエリート仏教徒たちにとっては)自分がそうありたいような仕方で仏教徒であることが可能であるということです。それと対極にあるのは或る形態のキリスト教やイスラム教のような「デジタル宗教」で、そこでは「全か無か」という仕方で改宗するのです。この国において禅を修行するにあたっては考えられる限りのあらゆるやりかたがありえますが、そのそれぞれのやり方の修行を止めるにはやはりその形態特有のやり方があるようだといってもあながち間違いではないと思います。
さてこのさき論議を進める上で以上のことを確認しておけば充分でしょう。人々が禅の修行を放棄するのはなぜなのでしょうか?またそれはどういうふうにして起こるのでしょうか?
ここで、オンライン上のディスカッション仲間数人が正しくも指摘したことに触れましょう。それは「期待」ということが基本的要因としてあるということです。或る人はこう言っています。
「いかなる宗教的行であれ、人がそれをやめる主要な理由は自分の期待していたことが満たされないからだ。われわれは期待が満足されるときにはいつでも、そこに至ったプロセスがうまくいったからだと思いがちであることを考えてみなさい。しかし実はそのことは、きっとうまくいくだろうと見越したプロセスが自分がそう願ったようなし方で起こったからこそ、うまくいったのだということを必ずしも意味するのではない。それは人々が自分で自分を誤解させているからだということを忘れてはいけない。われわれが見ているのはそのプロセスのしごく明白な性質なのだ。つまり、人はある期待をもって禅にやってくる。その期待が実現されなくて人は禅から去っていく、それだけのことなのだ。
しかし禅には期待を手放せとはっきりと説く教えでもある。期待に執着している者にとってこういう考えはたいそう難しい。それは次のようなプロセスを創り出してしまうからだ。ある期待をもって禅にやってくる。その期待を手放す。するとその人は禅を修行する明確な目的を見失ってしまう」
これはたいへんいい議論の出発点です。しかしわたしは実際にはこのことよりもさらに大きな要因が絡んでいるように思います。ここでは期待をもつことの問題点が仏教的修行の主要な目的のひとつは先入観や間違った分別を取り除くことにあるというレトリックを用いて提示されています。わたしの側からすれば、人々の日常生活において期待というものがどのような機能を果たしているかということが疑問としてあります。もっと具体的にいえば、われわれが住んでいる社会において、ひとびとはどのようにして宗教的指導者やかれらの教えについての期待を増大させていくかという問題です。彼らの人生の途上においてそれらの期待がどのように働いているのでしょうか?
あるインタヴュー
ここで、最近おこなった電話によるいくつかのインタヴューのうちのひとつを紹介しましょう。これはH−BUDDHISM上でのわたしの問い合わせに応じて実現したものです。インタヴューをした相手は二十代なかばの中西部に住む独身男性です。彼は不可知論的な父親と保守的・福音主義的なキリスト教徒の母親の間に生まれました。高校の最終学年のとき、インドのチェナイで学び、ヨガや瞑想についての関心を持つようになりました。そのときにはもうすでに禅について幾分かの知識をもっていました。その後、大学三年の時には京都に留学しました。そこで禅に深く関わるようになりいくつかの禅寺での接心にも参加したりしました。しかし米国に戻ってからはいくつかの要因のせいで禅修行を止めることになりました。ひとつは両親(とくに母親)が自分の息子が独身を守って宗教的な修行に一生をささげる(当時彼はそうすることも将来の選択肢の一つとして考えていたのです)ということにひどく反対したからです。もうひとつは、大学四年生の時に坐禅に興味をもつ友人を一人も持つことができなかったことです。彼はいまでは禅を永久に放棄したと言っています。禅的な人生への態度はいまでも自分にとって重要なものであることを彼は認めています。彼はいま婚約中です。彼は現在、禅を修行するのではなく、大学院でそれを学問的に研究しています。
もちろん以上はこの人物のきわめて大雑把な人生の要約でしかなく、ここでの議論のためにたくさんのことを簡略化してのべました。しかし、わたしがここで強調したいことはこの若者の禅への期待がどのようにして育っていったか、そのあり方、そしてそうした期待が明確な形態をとった禅修行を放棄することにどう影響したかという点なのです。彼は日本にいるあいだに「禅とはこうでなければならない,こうあってはならない」という強固なイメージを育てあげていきました。或る寺のあり方が理想的でありそれ以外の道場はとうていそれには及ばないのです。アメリカに帰って訪れたどの禅センターも彼にとっては合格点に達しませんでした。アメリカで教えられている禅はどこか浅薄で精彩を欠いているように思えたのです。(実際には彼の住んでいた大都市地域にはいくつかの禅グループがあって接触することもできたのですが、彼は車を持っていなかったので通うのが困難でした)
さらに悪いことには大学四年のときに彼は『臨済録』を教授の一人と一緒に中国語で読んだのです。そしてそこで展開されている禅独特の偶像破壊的な表現による「修行の脱構築説」に影響をうけ「もう修行の必要はない」という結論に達してしまったのです。これはまさに機能不全に陥った禅の実例です。禅の伝統そのものがその伝統から手を引く理由を提供してしまったからです。(わたしは、宗派的だという罪悪意識をもつことなく、もし彼が道元の『弁道話』か『現成公案』を読んでいたら彼の人生はどうなっていただろうかと考えてしまいます)
彼の禅へのアプローチは完遂しなかった回心体験、あるいは長続きしなかった若者特有の恋愛のように思えます。わたしは彼のことを軽蔑してこう言っているのではありません。しかしそこには多くの思春期後期・二十代の若者がよく経験する人生のかたちがあるように思います。つまり、この若者はまず人生を生きるのに最善の道は何か、考え得る限りでもっとも深く充実した未来とはどのようなものであるべきかを考えました。彼の場合、それは瞑想と宗教的な奉仕に人生をすべてささげて生きるということだったのです。彼の場合、問題だったのは或る特定の禅修行のやり方だけに固執したことでした。その禅修行のやり方は実はある特定の社会体制と信者の要求に応える聖職者としての禅僧の役割というものを前提として初めて成り立っているものであり、単に個人がお互いに宗教的な訓練において関わるというような単純なものではありませんでした。彼は結局、禅の修行を続けることができませんでした。それは彼が無限の可能性をもつアナログのレンズを通してではなく、限られた宗教的選択肢しかないデジタルなレンズを通してしか禅の修行を見られなかったからです。アメリカにもどってからというもの、彼が禅仏教徒としてのアイデンティティを持ちつづけそれを成熟させていくことを援助してくれた人はひとりもいませんでした。
ですから彼はいまはもうはっきりとした形態においては禅仏教の修行に関わっていません。それはある意味では残念なことです。しかし将来,宗教的な道に再び関わろうという気持ちがこの人物のなかで決して燃え上がらないと誰が言い得るでしょうか?禅とは何でありどうあらねばならないかについて彼のゆがんだ期待とわたしが呼んだもの(勝手ですがここでは純潔と理想的な禅寺のあり方について彼の思い込みをこう評価させてもらいました)があったとすれば、彼からなにかがはずれ落ちなければならなかったのです。興味深いことは、いま彼が自分の宗教的アイデンティティについて述べるときに使うのは彼の父親のそれについて述べるときに使った言葉とほぼ同じ言葉を用いているということ、そして彼が婚約している女性は自分の母親と同じように彼(あるいは彼の父親)よりもはるかに自分の宗教(仏教でもキリスト教でもない)に関心を持っているということです。わたしはこの人物との面接を引き続いて行ないたいと考えています。そこで自分の人生と両親の人生が明らかに平行的であることに気がついているかどうか、それについてどう思うかについてたずねてみるつもりです。わたしはつねひごろ通俗心理学的な解釈に陥らないよう用心せよと自分に言いきかせ続けていますが、この人物とのインタヴューで見受けられるパターンははっきりとしたものです。
結論的ではない考察
この人物についてのわたしの即席の分析が的を得たものであるにせよそうでないにせよ、人間のもつ期待には深層心理的なパターンがあると結論してもそう間違いではないように思います。それについて考察してみればそう驚くべきことでもありません。以上の議論で、この問題にはある複雑な人間的ダイナミズムが関わっていることを示すことができたのではないかと思います。
「なぜ人々はやめたのか」という問いに対してわたしが受け取ったもっとも共通した答えのひとつは「それがあまりにも難しいからだ」というものでした。時にはその難しさと言うのは単に長い時間坐禅をし続けることの困難さのことを言っているのかと思うときがあります。確かにそれはわたしたちのように坐るとひざや腰が痛くなるものにとっては重大問題です。しかし、それ以上に禅修行の難しさのなかには自分のやっていることが伝統に適合しているかどうか、その道をかつて歩いた人々が自分自身や他の人々に長年にわたってそれを示してきたやり方にあっているかどうかを考えなくてはならないということが含まれているのです。上記の誤った禅修行へのアプローチということでは、わたしの匿名の情報提供者が述べたことですが、わたしの評価によれば、修行を心理学的なテクニックとして考える傾向が指摘できます。この人は自分の禅へのアプローチをきわめてはっきりと「自助的セラピー」であると述べていました。
禅をひとつの自助的セラピーとして理解することについてはどこにも道徳的に間違ったところはありません。もちろん彼の人生においてそれが間違ったことであるなどという気は毛頭ありません。しかし、そういうアプローチでは禅の修行が多数ある選択肢のひとつ、一時的な傷を治す膏薬のひとつでしかないものになってしまいます。禅の修行が本当に困難であるのはいかなる特定の結果にも依存しないような仕方で実行されなくてはならないと言うところにあるのではないかと思います。修行を続けている人たちが共通して報告するのは「自分たちがなぜそれをしているのか、修行が果たしてうまくいっているのかどうか必ずしもはっきりしていない。けれどもそれ以外に生きようがない」ということです。www.zen−forum.comで知り合った新しい友人が指摘したように、期待を持つことが問題の一部になっているのです。曹洞禅からはなれないでいる人たちは、おそらく最初に持っていた期待が解消してしまい、それ無しでも修行を続けていける人たちなのでしょう。それこそが「菩薩の道」の現代的定義と言えるのかもしれません。
| ■ 伊藤ていじ先生と吉島忠男 |
| Date: 2011-09-30 (Fri) |
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« 高山 飛騨国分寺と・・・ | 記事一覧 | 高山の街をぶらぶら »
2010年07月05日 23時18分26秒
重要文化財「吉島家住宅」を観た!
テーマ:なぜかケンチクでも
土間の吹き抜け部分、見上げ
まずは以下に、伊藤ていじの美文を載せておきます。
天明8年(1788)初代重兵衛が荒城郡より高山に出てきた時より、吉島家は始まる。代々酒造を家業とし、ために酒神を祭る三輪神社の杉玉を軒先に下げている。また入り口にかかる「引両」紋のついた暖簾は、幕府に多額の運用金を献じたことによって賜ったもので、これは吉島家が身元よろしき豪商であったことを示している。
現在、国の重要文化財として指定されているこの住宅は、明治38年の火災後に再建されたもので、その棟梁は名工をうたわれた西田伊三郎である。飛騨の匠以来つちかわれてきた優れた技が、ここには凝縮され光を放っている。
この民家の最大の見所は、なんといっても土間の吹き抜け部分にある。大黒柱を中心として梁と束によって構成された立体格子が、高窓から投げかける光の移り変わりとともにその陰影と色合いとを転変させていく演出は見事というほかない。そして深みのある明るさをたたえて輝く木の肌は、ここを訪れる人たちの驚きであるが、これは代々の人々がその手で磨き上げ創りあげてきたものなのである。民家の美は、まさに竣工して以来人々が日々の生活を通して創りあげるものであることを、これは示している。
建築の教科書には必ず出てくる高山の「吉島家」、僕は初めて訪れました。名工とうたわれた西田伊三郎の手によって明治40年(1907)に竣工したものです。当時は幕府の禁制はなく、江戸時代の豪商の夢が自由に表現されている建築です。その意匠と構成は華やかさの中にも品格に満ち、その細部の手法の質は極めて高く、わが国の民家の中で最も優れたものの一つですと、伊藤ていじは述べています。
現在の吉島家の当主は7代目の吉島忠男さん。丹下健三都市建築設計研究所に勤務の後、高山に戻って吉島家の跡取りとしてこの住宅を管理しています。住宅の各所に篠田桃紅の墨書を飾り、ギャラリーには剣持勇の籐椅子を置いて、趣味の良さがにじみ出ています。隣接する明治12年に高山随一の名工、川尻治助によって建てられた重要文化財の日下部民芸館と並んで、この辺一帯(下二之町大新町)は「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています
| ■ Christina san From Osaka |
| Date: 2011-09-01 (Thu) |
Dear Hojosan, Todosan and the whole Shosoji family,
Many thanks for two exciting days in Nyukawa mura and at Shosoji! It was
wonderful to meet all of you again after long time and to find you all
healthy and active. It was also so nice to meet and speak with the
children, the new promising generation that later will take over Shosoji
and continue the tradition.
My mind is full of impressions that will last for long - intensive and
joyful discussions with Hojosan and Fumikosan, exchange of thoughts and
ringing the big bell with Sougasan at morning and evening, the
thunderstorm night spent alone in the 40-tatami prair hall in front of
99 Hotokesama with only paper windows between me, lightenings and heavy
rain, and where I could take my own short zazen sessions at any time.
Further, Hojosan's birtday cake, music on shakuhachi and piano by the
children, onsen visit with an unusual hot stone sauna, and many other
mamories.
Every minute was precious and I am already longing to come back.
Thank you very much and I wish for good health and happyness for all of you.
With respect and warm regards,
Christina
| ■ 二グレンさん スエ―デ゜ンより |
| Date: 2011-07-19 (Tue) |
Dear Harada-san,
Thank you very much for your mail (as below). I was very happy to hear
from you and to learn that you went to Germany. But you never came to
Sweden? I hope you and your family all are in good health.
For long time I did not visit Japan because I was working and doing
research in South Asia. But now I am very happy because I will go to
Japan in August. I will attend a conference in Osaka and after that I
will make a travel i Japan. I would very much like to visit Takayama and
Shosoji if it is possible?
Looking very much forward to meet you and to visit Shosoji again,
With respect and warm regards,
Christina
From: "harada michikazu"
To: 'ìÒÉOÉåÉì'
Subject: konnishiwa D harada
Date: Tue, 1 Feb 2011 20:32:53 +0900
How are you ?
We went last june
Germanny
My zen members Domoch sensei invite me>
Good luck you
By naw
D harada
| ■ 奥村老師より |
| Date: 2011-07-19 (Tue) |
原田道一老師様
フランスへのご旅行についてのお便りとお写真有り難うございました。
私も昨年フランスに行きました。フランスでもアメリカでも、人々は熱心に坐禅を行しています。
日本でも、この度の震災を機会として、物質文明偏重から、人間としての真実の生き方を求める人が増えてくればいいのですが。
内山老師の「宿無し法句参」、20年程前に英語訳を出し、宗務庁から教化資料として出ていましたが、昨年から絶版になっています。
新しく訳し直し、必要な箇所に註釈をつけて、アメリカの出版社から出せるようにしたいと願い、その準備をしています。
するべき仕事はいくらでもあるのに、時間だけがすごい速度で過ぎ去って行くような感じが最近しております。
それほど長くない、残された人生、後悔のないように、毎日を大切に生きて行きたいと願っております。
日本では、既に梅雨に入った事と存じます。うっとうしい日々、どうぞご自愛下さいませ。
この次日本に帰る時には、是非高山にお訪ねさせていただきたいと存じます。
奥村正博 九拝
| ■ 斉藤芳寛老師 |
| Date: 2011-03-09 (Wed) |
無所得 この世の中は無所得で出来ている。大自然の日月の運行から始まって何
もかもみな無所得である ただ修行するというのが、仏道の極意である。「タダ」という
言葉は梵語から来ている。タは施すという意味。ダは「宇宙」のことである。だからタダ
は「宇宙に施す」という意味になるから、与えて相手をきめてない。したがって、おつり
や返礼のあてはない、遣い放しである。タダの行為こそ純粋の清らかさを保っている。
正法眼蔵隋聞記巻二の二十二坐はすなわち佛行なり 坐はすなわち不為なりとあ
る垂示が タダの行為即ち人間的作為のまったく無い、不為の意をよく現している。
斉藤芳寛老師の文より引用
Nicht-Bekommen (Mushotoku). Die Welt besteht aus Nicht-Bekommen. Von der Bewegung der Sonne und des Mondes bis zu Allem. Von ganzem Herzen (Tada) praktizieren ist das wichtigste beim Buddha-Weg (Butsu do). Das Wort „Tada“ stammt aus dem Sanskrit. „Ta“ bedeutet Geben. „Da“ bedeutet Universum. Daher heißt Tada „dem Universum geben“. Man gibt etwas, ohne einen Empfänger zu bestimmen. Deshalb erwartet man keine Rückgabe oder ein Gegengeschenk. Man gibt einfach. Das Tun des „Tada“ ist reine Klarheit. Die Sätze aus dem Shobogenzo zuimonki im zweiten Kapitel Nr. 22 drücken das Tun von Tada, die Bedeutung des Nicht-Tuns (Fui) ohne menschliche Absicht 原田老師
ようやくこちらも春の気配が感じられてきましたが、いかがお過ごしでしょうか。
私たちも、この冬よく風邪は引きましたが、お蔭様で元気に過ごしております。
先日、普門寺に行って来ました。ちょうど二ヶ月間の制中が終わったとこだったので、みな活気がありました。
師匠にも訳文みていただきましたので、お送りします。日本の文章、それも禅の言葉をドイツ語に訳すとは、私の語学力と禅の理解度では大変でしたが、いい勉強になりました。有難うございました。マルゴットにも手伝ってもらいましたが、日本の文章は、しかも禅の言葉でもありますので、論理的なドイツ人にはなかなか理解が難しい様です。
Tun“.
| ■ 原田和尚のヨーロパの旅2010年 |
| Date: 2011-01-22 (Sat) |
くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり 中川宋渕
日本よドイツに学べ
日本が怪しくなって来た。日本の国難は何度もあったが、蒙古の襲来といい、ペリーの来航いい、第二次世界大戦といい、外国からの侵入の危険に向かった日本人
は、その時その時、それなりの覚悟があった。
今回の旅を通して。ドイツの人々の庶民の暮らしを眺めたとき、日本と西欧の歴史的関係を通して、第二次世界大戦後のドイツと日本について、考えることが多かった。
今回訪問した方々、住んでおられる町、その方との関係、どんなふうに滞在したかについて、簡単に書いておこう。
まず、今回の渡欧は旅であり、ゆったりした時間を戴けた。住職引退、東堂寮に住むようになったお陰である。太石現住職に相続できたからである。
30年前、渡米の思い出。
「オマハ禅苑 龍象衆銘禄」が手元にある。1979年6月15日羽田発の渡米。
約一ケ月滞在したときの参禅者の記した参禅の英語の記録である。貴重な記録である。
当時米国の奥地ミネアポリスを拠点として禅の布教に渾身を尽くされた片桐大忍老師のお勧めで、ネブラスカ州オマハ市に禅の指導の依頼を受け、渡米記録である。この一頁目には片桐老師が墨筆により「南無釈迦牟尼佛」と揮毫し、三宝印が朱で押してある。
★日本語なしの生活 英語のレチァ第一声
「坐禅 イズ ザゼン。サゼン イズ ノット メデイション」
ネブラスカ大学教授 ゴードン、ベッカー氏の自宅に居候をしての一ケ月、この体験は私にとっての尊い経験であり修行であった、その後の生き方にかなり影響を及ぼした。
その後、米国人とかかわって、その気質が段々分かってきた。
それ以来、片桐老師のご苦労の一端を知る機会に恵まれ、米国とヨーロッパの国との国民性の違いもお聞きする機会もあった。今回のヨーろっぱの旅への好奇心は、北米と異なる文化圏に住まう人々の気質と生活についてであった。ヨ−ロッパ文化の深さについて触れてみたかった。
訪問先
1 ドモッホ先生(Walter Dmoch)宅滞在
6月16日夕より20日朝まで。
一昨年、昨年と秋に二回正宗寺に参禅されたドイツの精神科の博士、ドモッホ先生のお誘いにより、デユッセルドルフというドイツの都市に最初に草鞋を脱ぐ場所を得た。
ヨーロッパの地図を眺め、以後計四ケ所の旅の日程をこしらえた。ユーロパス(周遊券)を予約した。 )「街の西側をゆったりと流れるライン川。ゴチャゴチャとしたデユッセルドルフ中央駅周
辺から車でライン川に向かい、そこにかかっている橋を渡ると、下流のオランダとドイ
ツ内陸部を忙しく行き交う船、川原には時折、一匹の犬に率いられた羊の群れを追う羊
飼いの姿もみられる。伝統的なドイツの風景である。そもそもデユッセルドルフはドイ
ツ北西部ノルトライン・ウベストファーレン州の州都であると同時に、ヨーロッパに進
出する日本企業の基地でもある。日本人が八千人住んでいる街でもある。」
◆ ドモッホ先生の出迎え
フランクフルト乗り替えデユッセルドルフ空港に付いた四人、ドモッホ先生は持参の大型車で迎えてくださる。緑濃き街路樹の市街地へ入る。やがて先生の大きな自宅に到着。
二階の大きな部屋を二室用意して下っていて、休息安眠ができた。
朝の食事は先生自ら作り、お給仕して下さった。
ここでの様子は、昨年先生同伴のロウソンさんの写真記録のCDとDVD(ヨーロッパ
の旅)に収録。
★ドモッホ先生から一冊の図書 「肚」HARAと日本弓道会のデユッセルドルフにある★HOKO−KYUDO 峰虎の会の活動については、後に特筆することにする。
★ドイツで出会った光る日本人 狐真理子先生
2 オランダ Taetska テイッカ女史主催 TSUKI(月)の会のの坐禅会
「禅ガイド」を見て訪れた外国人特にヨーロッパの人々
在日米国人が編集してニューヨークで発行された「禅ガイド」によって正宗寺を訪問した数多くの外国人参禅者の中に、異色の方も訪問されている。現在世界の辺境の地で民族芸能の研究をされているスエーデン・ストックホルム大学のニグレン先生などは、突然訪問され、正宗寺で在家得度されて、日本の安名も授与されている。日本の芸能の含むアジアの芸能に関する著書もあり、現在は、どこの辺境の地で研究されているか。きっと近く突然の正宗寺にやってくるに違いない。
今回、一夜の坐禅会を要請された、オランダ、ライデンにお住いのデイツカさんは、最初は、オランダの代表する交響楽団のハープ奏者としてに来日の帰り、一人で正宗寺を訪問された。今回の「月」の皆さんの前で、日本にやってきてお寺に電話されたときの日本語の対応の難しさを落語風にお話になり、日本のお寺の門を叩く外国人の緊張感を知ることが出来た。菜穂子の通訳を通しての坐禅会も経験した。一泊往復の鉄道旅行も出来た。帰る当日19日、ワールドカップ、オランダと日本の試合があるというので、街はオレンジの旗が街に車に、眼に止まった。ドイツもまた、サッカー熱が街にあふれていた。
オランダと日本が蘭学とよばれる江戸時代からの交流があり、親日の方が多い。
ライデン市には、日本長崎に来ていたシーボルトの記念館が最近完成、テツカさんの案内により記念館訪問。シーボルトの集めたコレクションが沢山陳列されていた。
ライデンでの宿泊は、B&Bという古い建物を大切に改造した民宿調の宿に泊まり、家族の見える部屋で楽しく食事をした。
18日の夜、八時からテツカ女史の自宅のホールにメンバー二十人が参加しての坐禅会坐禅の終りに家内がご詠歌の奉詠した。終わっての茶話会は和やかな空気の中で行われ、日本のご詠歌が好評であった。この会で皆さんからのお布施をいただいた。
19日は、ワールドカップのオランダ対日本の試合が行われ。街のあちこちに、車の窓に医オランダ国旗が旗めいていた。
3
ランツフートに日本庭園のマイスター禅勝下川師を訪ねる
ランツフートの歴史と街
ランツフートの町は、13世紀頃にローマの植民地に、バイエルンの王様が町の周囲
に城壁を築き、歴史が始まったようです。その後15世紀まではバイエルンの首都だったのが、15世紀王家の内紛で戦争となり、これに負けて首都はミュンヘンに移ったそうです こんな田舎町ですので大戦での空襲も受けず、中世野町並みがそのまま残っており、とてもきれいな町です町の中心は小高い丘の上にある昔の王様のお城と130Mの高さの煉瓦造りの塔がある教会です。煉瓦積みでは世界で一番高い建物だそうです
町の真ん中をアルプスの麓に源を発しているイザール川が流れています。
この川を80メートルkMほど遡るとミュンヘンの街があります。下流に下って行くと100M余りでドナウ川に合流し、ヨーロッパの各国を流れてウクライナで黒海に注いでいるようです。
ド
ドイツに渡って12年 今年正月長男の誕生
私と彼
池田芳一先生の愛弟子
池田先生 1940年東京生まれ 早稲田大学中退
チュービンゲン大学哲学部を経て196年ベルリン自由大学哲学社会科学部終了
1973年論文「定住戸へ放浪」1977年〜1978年ベルリン自由大学宗教学
研究所客員教授名城大学助教授 飛騨国際工芸学園学長 2008年7月逝去
昨年逝去された池田芳一氏は、哲学者としての人生を全うされた。感謝に耐えない。
「人はなぜか風にさそわれて旅に出る。風情といい風流といい、風雅といい、風狂とい
う。たとえ人為の世間において「非情」の謗りを受けようとも一所不住の旅にあり続け
たいとは、わが青春の見果てぬ夢であった。なのに拙くも愚かな「道行き」の末にふと
気がついてみれば、浮世の義理に足取られ、住処を定め、「塵労」に汚れて、日暮らし
なりわいの業に励む身とは成り果てた。
かくなる上は痩せがまん、敢えてまた身を風狂に擬し、去りゆく日々をすべて旅の日
と見なし勇んで、人生即旅の風狂に生きんと覚悟するこの頃である。
今の世に「行人」たらんとすることは、まことにむずかしい。しかし、生きとし生ける
もの皆その終わりに逝き急ぎ、行方も知らぬままに終末を迎えんとする時代、なほ自然
の歩みをひたすらに守り続けんと覚悟することは、わたくしに残された唯一の「行」と
思われるのである。」著書【旅行くものの哲学ー自立への道標」あとがきの一部】
池田氏は、三年前、芭蕉の「この道や行人なしに秋の暮」、夏目漱石の小説「行人」
を慕い、平成方丈記を最後に、絶学無為の間道人となったはず。
しかし人生行路の最後の仕事として、越中と飛騨境の古民家の再建に命を燃やし、完
成した。哲学の杜「行人舎」部屋の名前に、「ソクラテス」「プラトン」「西行」と東
西の哲学者たちの名前が並ぶ
飛騨の天地自然を信じ愛した氏は自ら桜の苗樹を植え続けた。 、
今年も飛騨山脈 乗鞍岳の絶景が望める「行人舎」の丘陵に、桜が一斉に花をつける。
今年、7月3日 池田直惠夫人は、先生の自書「求道」の墓石を建てて、絶学芳一居
士の三回忌を主催された。朝夕、飛騨の山河盡地盡界を一万歩を悠歩する私は、「行人舎」付属施設富士山溶岩浴にも出かける。入浴の帰り、池田直惠夫人にお会いして、亡き池田先生の事を語る。
先生は、生前 自己流の哲学的実践をされた先生だけに、夫人が、残された「行人舎」をどう守っていくかに苦慮されていると推察していた.しかし、それ以上に夫人は先生の死を深く悼むでおられる姿に、人生の真実を見た感がした。
禅勝下川師との出会い
飛騨に来て国際学園のドイツ語科に入学した青年下川氏。池田先生に誘われて原田和
尚は学園を訪ね、学生とも交流。そこで下川青年と知り合う。池田先生の自宅に居候
しながら、先生の秘書を勤める下川青年は、時に正宗寺原田和尚の主催する「禅寺ス
クール」の手伝で私を助けてくれた。
彼は学園終了後京都にて日本庭園を学び渡欧する。池田先生の助言で、バイエルン
地方のランツフートに居を定め、活動を開始する。
行人舎完成の間近、ドイツのマイスターという国家試験に合格した彼は、ドイツラ
ンツフートの普門寺にて出家、曹洞宗の僧として普門寺に禅の日本庭園を作り、話題
になる。様々な苦難の物語を経て、ドイツ人のマルゴットさん(彼女は公務員で環境
の専門家である)と結婚。実家が農家でご両親はご高齢で、今年孫の忠雄が生まれて
大変な喜びと聞く。
今回のヨーロッパの旅に、第一に、下川師の禅の庭、曹洞禅道場大悲山 普門寺の
拝登を希望した。慣れない今回の旅はインターネットを通しての下川師に様々な助言
なくては実現出来なかった。ヨーロッパ国際列車に乗って快適な旅が出来た事を感謝
する。広大な農地が続くドイツの風光の記憶は、今も消えない。
3 6月20日午後 下川禅勝師 駅での出迎え
セルドルフ中央駅にてドモッホ先生の見送りいただき、車内食を昼食にミュンヘン中
央駅で、しばらく休憩の後、ランツフート駅に下川師の出迎えを受ける。
ドナウ川に通ずるイザールの大川が眺められる良いホテルルを予約していただいた
毎朝食に通う、ホテルのレストランにも、バイエルン地方の地域の歴史を感じる。
ホステスか大きな声で愛嬌がよい。
夕暮れイザール川の流れを眺めながら、昔読んだヘルマンヘッセのシッダルタを思
い出していた。
川向こうのアパートの四階の部屋が、家族三人の住宅。お釈迦様坐仏と共に飛騨紙屋文二郎さんから送られた金時さんが忠雄さんの五月の節句をお祝いしていた。禅勝師の長男忠雄の名は、世界的な建築家、安藤忠雄のように世に羽ばたけという願いを込めての命名と感じとった。
下川師と奥様の歓迎を受けてアパートの自宅の一室で夕食は三夜とも下川師の手料理をいただいた。家内好物の「うどん」も出た。
ランツフートの街の品の良さ感じつつ、あっという間の三日だったが、ドイツに生きる日本青年の真面目さに、頼もしいものを感じて後にして、ランツフートを後にした。
4 スイス ビンタートールにエデス、ジャック夫妻を訪問
19世紀にはチュリッヒと並ぶ経済の中心地として機械工業や銀行などの
産業が発展したスイス屈指の都市でありながら、中世からキーブルグ、ハプス
ブルク家の重要な拠点として栄えた歴史の面影が旧市内の随所に残されていま
す。 豊かな財力を持つ資産家たちが、芸術の花を咲かせた文化の都市で世界
的な名画の所蔵、コレクションの集まっていることでも、有名です。
路遠くして馬の力を知り、事久しくして人の心を見る
仏道は順逆の中に長遠の志を堅持するを真実担道の人というなり。
大智禅師仮名法語
かつて十数年前、この夫妻が禅を求めて飛騨の正宗寺に来山された。
その後毎年クリスマス兼年賀のカードと共に高価なチョコレートが送られて
きて何時になったらスイスに来られますか、と言葉が付け加えられていた。
一度オランダに家内と立ち寄ったとき、わざわざ宿まで訪問されて再会を
祝した。今回突然のように、ドイツからスイスへの鉄道の経路を確かめ、今
回のコースの最終地に選んで、連絡をした。別に観光コースを選ぶことは望
んでいない我々はエデス、ジャック夫妻のお家の近くに宿を希望した。
昨年、日本式茶室をジャックさんが作った写真が同封されていて、きっと
丁寧に庭も日本式であろうと、想像していたので、わさわざ自宅に毎日訪問
し毎日日本デーになってしまった。お茶碗とお茶の簡単な道具を持参し、ジ
ャクさんのお点前を拝見し、小さいが日本式庭園の茶室で一時を、そして帰
る朝は短時間であるが坐禅をさせていただき、和尚流の禅語の揮毫もさせて
いただいた。きれいなお部屋で、心を込めて食事を用意され、尊い時間を過
ごした。菜穂子の通訳も手伝って、西洋が日本から新しい風が吹くことを願
っておられる点、戸惑いを感じ、日本の状況も決して本来の日本文化に根を
下ろしているか疑問であると云わざるを得なかった。
西洋文明に対する限界を感じておられる知識階級は、本当の静寂、安心を
求めて、日本文化に学んでおられることを、強く感じた次第です。
飛騨の山寺に住み、このような暮らしが出来ることが大変なことであると
帰山して感じています。得難い地に住んでいることを。
5 付録 大きな旅のプレゼント
チュウリッヒにヘルツカ博士を訪ねる
ヘルツカ先生訪問
今回、スイスヘ旅することを決意し、かつて池田先生を訪問されて私も面識のあるヘルツカ先生に手紙を出した。先生は世界的に著名なチュリッヒ大学の博士名誉教授で「子供とおもちゃ」「児童の発達障害」などの日本の参考文献にも沢山登場している。
「是非 来るように、一緒に食事をしましょう」と返事のメールを頂戴した。
ビンターツアのエデスとジャクさん夫妻の案内で、6月24日午後7時30分にご自
宅に列車乗り電車にバスに乗換えて訪問が実現した、チュリッヒ市内の高級住宅市街の
一角先生の住宅があった。鍵の文化の西洋の都市は、警備が徹底していて、中から確
認の合図があって初めて、門を開くことができる。
戸を開けるとご夫妻が部屋我々を部屋に招いていただき、挨拶もきわめて簡単に、笑
顔にて握手、少々のお土産を差し上げて、用意されているテーブルに六名が着席した。
驚くことに先生みずから台所にて立たれて用意された「インド料理」。重い鍋を一人で
持参してくださった。このようなもてなしを、最近経験しない私は、感激した。 偉
偉い先生とはこのようなお方かとあらためて、教えていただいた。
幾度も食事をすすめて頂き、珍しいデザートも用意して頂き、帰ってからご丁寧なご
挨拶を送って戴いた。
池田先生との深い友情を私達にも頂戴し、孫晴菜には、「世界の子供たち」という先生
の新著にサインして頂戴した。「子供たちの世界は文化の違いを越えて大切にいたしま
しょう」と別れの挨拶された。その夜は、満月でチュウリッヒの空が私たちの帰りを最
後まで見送ってくれた。忘れられぬ光景となった。
ヘレツカ先生について インターネットからの引用紹介
付録
フランクフルトにて 大沼光彦氏家族にお会いし、楽しい一時を共有出来ました。
空港への見送りいただ。「ゲーテの家を見学」街でアスクリームを食べる。
奥様晶子さんとお子さんのフランクフルト スズキの若い技術のホーフのパパ。
健康な家族の会話に、ドイツの日本人は、とても頼もしく生き抜いている。
| ■ 秋葉玄吾老師 |
| Date: 2010-11-25 (Thu) |
福井県の永平寺で修行を始めて5、6年目の頃でした。サンフランシスコの禅センターでの座禅に誘われまして、10日間ほどサンフランシスコに行くことになりました。禅センターでは、世親(せしん)といって1週間、朝4時から夜9時まで食事以外はひたすら座禅を組むという修行をしているところで、サンフランシスコ空港に到着すると、早速、座禅を組みました。結局、そのまま1週間座禅を続けて、どこか連れて行ってくれると思ったのにそのまま空港に送られてしまいました(苦笑)。そして、サンフランシスコから帰ってきて1、2年後に永平寺での8年の修行を終えて、下りてきたのですが、そのときに禅センターの人からサンフランシスコに来ないかと再び声をかけられたんです。でも、言葉は不自由だし役に立てないから無理だとお断りしたんです。そうしたら、ただ一緒に生活をしてくれればいいと言われました。私の動作が見本になるからということなんですね。実際に行ってみて、アメリカにもきちんと座禅する人がいるんだなあと感心しましたし、結局、ビザを取って外交辞令のつもりでそのお話しを受けてサンフランシスコ禅センターに行きました。1982年2月のことです。
福井県の永平寺で修行を始めて5、6年目の頃でした。サンフランシスコの禅センターでの座禅に誘われまして、10日間ほどサンフランシスコに行くことになりました。禅センターでは、世親(せしん)といって1週間、朝4時から夜9時まで食事以外はひたすら座禅を組むという修行をしているところで、サンフランシスコ空港に到着すると、早速、座禅を組みました。結局、そのまま1週間座禅を続けて、どこか連れて行ってくれると思ったのにそのまま空港に送られてしまいました(苦笑)。そして、サンフランシスコから帰ってきて1、2年後に永平寺での8年の修行を終えて、下りてきたのですが、そのときに禅センターの人からサンフランシスコに来ないかと再び声をかけられたんです。でも、言葉は不自由だし役に立てないから無理だとお断りしたんです。そうしたら、ただ一緒に生活をしてくれればいいと言われました。私の動作が見本になるからということなんですね。実際に行ってみて、アメリカにもきちんと座禅する人がいるんだなあと感心しましたし、結局、ビザを取って外交辞令のつもりでそのお話しを受けてサンフランシスコ禅センターに行きました。1982年2月のことです。
●禅センターでの活動について
モントレーカーメルのバレーに禅センターが所有するタサハラという修業寺がありまして、9月21日から12月21日までの3ヶ月と1月21日から4月21日までの3ヶ月の合わせて6ヶ月間、集中的に修行していました。これを安居(あんご)というのですが、1日6時間の座禅に、食事や鐘を叩くなど生活の仕方も含めたいろいろな作法をアメリカ人にブロークンイングリッシュで教えていました。今の禅センターはそんな修業を一緒にしていた人たちが支えています。私の戦友みたいなものですね。
こちらでいろいろと教えていて思ったのが食事のことです。こういう世界では、日本はもちろん精進料理なわけですが、特に永平寺は厳格でおかゆとごま塩とたくあんくらいのものです。ウルトラスーパーベジタリアンですよ(笑)。にんにくなどにおいの強いものは野菜でもダメですから、栄養失調になってくるんですね。ところが、こちらのベジタリアン料理では、豆類やオートミールがあったり、牛乳やチーズも摂れるので栄養が考えられているというか合理的なんですね。アメリカのほうが日本のように伝統的な形式に陥ることなく新鮮な感覚でやっているということなのでしょう。
そういう食生活をしていると日本にいたときより贅肉がそげて筋肉質になりましたし、座禅を長時間組んでいても背筋をピンと伸ばせるし眠くもならないし、そのおかげなのか座禅の本質をアメリカに来て自覚しましたね。つまり、座禅をしているときは、無になれとよく言われますが、それは何も考えないということではないのです。アイデアが浮かぶのは当然ですが、その思い浮かんだものをつかまえず、そのまま流すということが考えないということなのです。でも、これが非常に難しい。
ちなみにタサハラはリゾート地として5月下旬から8月末まで一般の方にも開放しています。温泉がありますし、タサハラクッキングという日・仏・伊をアレンジした精進料理も楽しめるんですよ。
●再渡米のきっかけ
サンフランシスコに1年半ほど滞在した頃、日本に帰ってこないと破門になるぞと言われまして、本当に破門されかねなかったので東京・麻布にある永平寺の東京別院に指導役の維那(いの)として日本に戻りました。それから、東京の日の出町にある保泉院(ほせいん)の住職も兼務しながら6年ほど日本で仕事をしていました。ある時、ちょうどグリーンカード抽選の1回目が始まるということでベイエリアで知り合った(現在、妻の)Yoshiから応募しましょうと連絡があったんです。でも、最初は断りました。日本では、将来を嘱望されたお坊さんになっていましたからね。でも、Yoshiはレストランをやっているし、食べるのには困らないわよと誘われて、とりあえず応募することにしたんです。Yoshiは100通も応募してくれてグリーンカードが当たったんですよ。大使館へ行ってグリーンカードの申請を行ないましたが、その後も数ヶ月悩みましたね。でも、日本では宗教が忌避されているところがありますが、アメリカでは生活の中に宗教を持とうとする敬虔な人がたくさんいますしね。そういう環境は、お坊さんとしては理想じゃないかと思いました。
●英語で失敗したエピソード
英語はもう不自由ですね(笑)。仏教のことを話そうとしても止まっちゃいますよ。グリーンカードを取って再渡米した当初は、自転車で近くの英語学校へ通っていたのですが、私はそのとき45歳で、クラスはみんな若い人たちばかりですから、ガキ大将みたいな気分でしたね。20代後半の女性の先生に「Speak!」なんて言われると、犬じゃないんだから!って思いましたよ(笑)。
●英語が100%ネイティブだったら
禅について、もっと説いていきたいですね。
●仕事とは
お坊さんだと、人が初めから心を開いてくれるという場面が多いですから、お坊さんであることをありがたいと思いますね。
●小さい頃、なりたかった職業
小学4、5年のとき作文で、お相撲さんになりたいと書きました。体格ががっしりしていたので村の相撲大会では、むやみやたらに強かったですよ。
●もし、お坊さんじゃなかったら
世の中のためになることをしたいですから、自分の性格とかを考えると政治家が向いているかもと思ったこともありますね。
●住んでいる家
5ベッドルーム3バスにリビング、キッチン、茶室があります。それから座禅を組むための僧堂・好人庵が離れにあります。建設するのに、近隣住民への理解も得なければいけなくて公聴会を何度も開きました。大変でしたね。日本で材木を加工してコンテナで運んで、宮大工も5、6人こちらに来て組み立てました。
この家は、以前エドモンドさんという日本に軍関連で15年ほど住んだことのある方が、リタイヤ用にこの家を日本風に建てたものでした。ある時、エドモンドさんからお茶を飲みにおいでと誘われまして、床の間や良い庭があってお寺にぴったりだと思いました。その後、エドモンドご夫妻が亡くなられて家が売りに出されました。しかし、売値が高くて買うのはあきらめていたんです。しかし、1年くらい経ってもその家は売れておらず競売にかけられることになりました。Yoshiがその競売にちょっと行ってみると言い出して、私はあきらめていた物件ですから行かなかったのですが、Yoshiはひとりで競売に出かけていったんです。そして、電話が来て家を買っちゃったって言うんですよ。競売で競っているうちに、もっと値をつり上げたら、その後、誰も追いてこなかったみたいで・・・(苦笑)。思いがけず、この家を手に入れることになりました。
●乗っている車
92年のアコードです。走ればいいというタイプなんですよ。だから、私は新車を買ったことがないんですよ(笑)。
●起床時間・就寝時間・睡眠時間
朝は7時から座禅をしています。夜寝るのは12時前後ですね。
●休日の過ごし方
庭いじりとか犬の散歩ですね。近くのカレッジアベニューも商店街になっていますから出かけますよ。
●お気に入りのレストラン
Yoshiがオーナーをしている「Yoshi’s」ですね(笑)。
●よく利用する日本食レストラン
最近は日本町の桑港寺に行くと近くの「しゃぶせん」へよく行きますね。また行くんですかぁ?と言われますよ(笑)。
●1億円当たったとして、その使い道
郊外にクリークのある修行寺をつくりたいですね。
●日本に戻る頻度
年に5、6回です。
●日本に戻って驚いたこと
最近は、何でもこういうこともあるんだなあと思うようなりましたけど、ひと頃、茶髪には違和感がありましたねえ。それから私の社会観ですが、日本の人は、自分の国を守るということを放棄していると思いますね。でもそんな日本の曖昧なところが一番幸せなんですかね。
●日本に持っていくお土産
カリフォルニアワイン3本です。それが持っていくのに限界だからね。
●ベイエリアに持ってくるもの
本、仏具、それに海苔、お茶、乾燥わかめです。
●日本に郷愁を感じるとき
8年修行をした永平寺には年に1回は行かないと帰りたいなあと思いますね。
●永住したい都市
アメリカはいろいろな所に行ったけど、ベイエリアが一番ですよ。
■プロフィール■
秋葉 玄吾
あきば・げんご
1943年、東京北区十条に生まれる。生まれて半年後に父親の実家・福島県伊達郡に疎開。小学生時代を過ごす。叔父からの勧めで仏教に興味を持ち、駒沢大学仏教学部に進学。卒業後、広告会社に7年勤め、その後、僧侶となる。30歳より福井県永平寺で修業を8年行なう。1年半のサンフランシスコ禅センターでの滞在を経て、1987年本格的に渡米。自宅に好人庵を建設し、禅の普及に尽力している。曹洞宗両本す。
●最も印象に残っている本
曹洞宗開祖 道元禅師の著、「正法眼蔵」です。第一級の哲学、宗教、詩が一体になったどんな状況にも当てはまる書です。
●最近、読んだ本
| ■ ドイツ ドモッホ先生への質問 |
| Date: 2010-10-14 (Thu) |
原田老師
いかがお過ごしでしょうか。
こちらもすっかり秋になりました。朝晩は肌寒いぐらいです。
ドモッホ先生に老師からの質問お送りした所、早速、御返事頂きました。
あまり良い日本語でなく申し訳ありませんが、間単に訳をつけさせて頂きました。
こちらはおかげさまで皆元気にしております。
週末にはまた義理の両親の所へ行く予定です。
又なにか訳で不明な点等ございましたらご連絡下さい。
写真は最近普門寺へ行ったときのものです。皆様に宜しくお伝え下さい。
禅勝九拝
----- Original Message -----
From: Walter Dmoch
To: Zensho Shimokawa
Sent: Monday, October 04, 2010 8:01 PM
Subject: Re: お願い Frage von Harada Roshi
Shimokawa sama, konnich ha. Leider ist mein Japanisch zu schlecht, um
In dieser schienen Sprache rasch zu antworten. Deshalb. Bin ich sehr erfreut, dass Sie so gut ydrutsvj koennen Im Augenblick bin och in der Schweiz und kann nur mit meinem IPhone antworten.
Warum Nyukawa?
どうして丹生川で座禅する事になったのか?
Eigentlich eine langer Geschichte, hier ganz kurz: Vor sechs Jahren war ich bemueht, im Kyudojo von mishima Sensei den ich durch Meinen Kyudolehrer kennen gelernt hatte, Kyudo zu ueben und wollte zugleich Shikantaza praktizieren. Asato sensei hat mich mit Harada Roshi bekannt gemacht. Als ich Shousou-ji sah, wusste ich, dass es dort sein sollte. Schicksal oder Fuegung des Himmels? En.?
お話しすると本当は長くなるのですが、簡単にお話します。六年前、私のドイツでの弓道の先生のご紹介によりまして、日本の三島先生の所に参りました。そこで弓道の教えを請うと共に、只管打座の修行をするのが目的でした。その折、アサト先生(アサトの漢字は分かりません)より原田老師をご紹介頂きました。そして私が最初に正宗寺を伺った折、修行するのはここしかないと直感しました。運命か、天の摂理か、それとも縁でしょうか。
Warum Soto?
どうして曹洞宗か?
Außerdem wollte ich nicht in einem der großen Zendo mit Zentouristen sitzen.
Ich war zuvor zweimal im Kamakura bei Suhara Koun Roshi wegen Kyudo. Ich habe längere Zeit nach der Rinzai Schule geuebt. Nach einigen Koanloesungen habe ich 'mu' ganz neu verstanden und Rinzai aufgegeben. Auch habe ich bei Sanbo kyodan gesessen. Ich hatte kein gutes Gefuehl dabei und habe nach einiger Zeit Abstand genommen.
その上、私は、海外からたくさんのいわゆる禅のツーリストが来る、大きな禅堂で座りたくはありませんでした。
私は以前二度ほど鎌倉のスハラ コオウン 老師 の所に弓道の修行のためお世話になりました。それ以前に既に長い間、臨済宗で座っておりました。幾つかの公案を解いた後、私は無の公案をまったく新たに理解しました。それがもとでわたしは臨済宗から離れました。それ以外にも三宝教団でも座った事がありますが、その折もいい感じを受けず、しばらくの後、そこからも足が遠ざかりました。
Dougen Zenji hatte ich schon seit Laengerem studiert und viele Parallelen zu Meister Eckart gefunden. Natürlich haette ich auch bei einer deutschen Sotogruppe sitzen koennen, in Essen oder Duesseldorf, doch wollte ich den Geist des Ortes erfahren. Ausserdem schien mir der dortige Lehrer zu sehr mit Selbstdarstellung beschäftigt.
Am Staerksten aber hat mich die Begegnung mit Harada Roshi motiviert: 'wenn der Schueler bereit ist, erscheint der Lehrer.'
私はすでに以前より、道元禅師の教えを研究しておりまして、マイスターエックハルトと多くの類似点を発見しました。もちろんドイツのエッセンやドュッセルドルフにある曹洞宗のグループで座ることも可能でしたが、私はどうしても禅が育ったその場所の気風を直接、体験したいと思っておりました。それにドイツの禅の先生たちは禅に対しているというよりなにか自己演出をしている様、私には思えました。
私を曹洞宗に引き付けた最大の理由は原田老師との出会いだったと思います。"弟子の機が熟すれば、師匠が現れる"とでも言いましょうか。
Leider kann ich auf diesem Wege nur ganz grob die Hauptbeweggruende schildern, doch hoffe ich, dass diese knappen Mitteilungen fuer den beabsichtigten Zweck ausreichen. Natürlich gibt es noch viel zu sagen, doch bitte ich um die Erlaubnis, hier beenden zu dürfen. Ich danke Ihnen für Ihre Hilfe und Wäre sehr erfreut, wenn 'wir' uns eines Tages kennen lernen koennten. Mit freundlichem Gruß
Walter Dmoch
| ■ 棚橋一晃 円空佛の話 |
| Date: 2010-09-17 (Fri) |
この宿儺像が祭られている岐阜県の界隈から、次のような古老の話しが採集されているという。
「寺の近くに住む子供たちは、水浴びをする川に円空仏をもっていって、それで遊んだ。川に流しては上流にもってゆき、また流して遊ぶのである。そうしたら、年寄り衆が、「ほんなもん、仏様を勿体ないことをする。本名水遊びの、裸んどこへ、連れ廻るもんでない。」といって叱り、その仏様を収めた。その晩、その年寄りのところに仏様が現われ、「おら、折角きょうは、子どもと面白う遊んどれるやつを、どうして止めてくれた。」といった。それからは子供たちが円空さまにいたずらをしても、誰も止めなかったという。これに似た話は、各地で語られている。子供たちは、円空仏をかつぎ廻ったり、縄で引っぱったり、雪の上を橇の代わりにして遊んだという。」(棚橋一晃「円空の芸術」)
これに似た話は、数多く採集されているようだ。ほのぼのとした日本昔話の典型といえるかも知れない。円空仏ではなく、単なる地蔵様であったり、子どもに注意した年寄りが、仏様に懲らしめられるという殺伐としたものもあるが、なるほど、円空仏と言われてみれば、そんなことはいかにもありそうな
| ■ ゆがんだキュウリホームページ |
| Date: 2010-09-15 (Wed) |
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Bibliography DC Books DC Writings DC Misc About DC
参考文献 DC本 DC 著作 DC その他 DCについて
Crooked Cucumber Home Page
ゆがんだキュウリホームページ
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デイビッドチャドウィックによる本
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アマゾンドットコム関連
Crooked Cucumber is the biography of Shogaku Shunryu Suzuki Roshi, Soto Zen master, author of Zen Mind, Beginner's Mind, founded San Francisco Zen Center & Buddhist monastery Tassajara, Zen Mountain Center.
ゆがんだCucumberは、そうです ショウガク鈴木俊隆Roshi(ソートー禅マスター)の伝記著者の 禅心、 初心者のMind、起こされたサンフランシスコ 禅センターと仏教修道院Tassajara(禅マウンテンセンター)。
Shunryu Suzuki (not to be confused with the great monk and scholar D.T. Suzuki) came to America in 1959 to minister to a small Japanese-American congregation at Sokoji, Soto Zen Mission, on Bush Street in San Francisco.
鈴木俊隆(偉大な修道士と学者D.Tで混乱しないために。スズキ)、サンフランシスコのブッシュ通りの宗光寺(ソートー禅ミッション)に、小さな日本のアメリカの会衆に、大臣に1959年にアメリカに来ました。
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"
Chadwick's biography provides a generous glimpse of the humanity and message of one of the great spiritual teachers of the modern world."
チャドウィックの伝記は、人類を気前がよい垣間見ることと現代の世界の偉大な精神的な先生のうちの1人のメッセージを提供します。」
-Publisher's Weekly
-出版者の週刊誌
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Artists, school teachers, poets, and students of Asian culture and thought began to practice zazen, Zen meditation, with Shunryu Suzuki early in the morning. Crooked Cucumber tells the story of his life and the development of his teaching and the San Francisco Zen center. It includes many previously unpublished excerpts from his lectures, lots of great teaching stories, and a unique, unromantic look at a Zen master's whole life.
アジア人のアーティスト、学校教師、詩人と学生 文化と思案は、シュンリュウと座禅(禅瞑想)を練習し始めました 朝早く、スズキ。 ゆがんだCucumberは、彼の人生の物語と彼の教育とサンフランシスコ禅センターの開発を言います。 それは、彼の講義、たくさんのすばらしい教育記事と禅マスターの生涯の独特の、ロマンチックでない観察からの多くの前に未発表の抜粋を含みます。
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check home for more links what's new table of contents Shunryu Suzuki donatetothisSite DchadMisc interviews bibliography articles/excerpts CukeSanghaNews Death & Dying SFZC Current Events Thank You and OK! links comments Photos and lots more if you look around
より多くの関連What's New目次鈴木俊隆donatetothisSiteのためのチェック家 DchadMisc インタビュー 参考文献 記事/抜粋 CukeSanghaNews 死と死ぬこと SFZC 時事 ありがとう、そして、OK! 関連 コメント より、あなたがあたりを見まわすならば写真と多く
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Dharma groups in or related to Shunryu Suzuki's lineage (online or off)
自然の法グループ 流行っているか鈴木俊隆の血統に関連がある(オンラインであるか離れている)
Broadway Books
ブロードウェー本
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ttp://www.ryumonji.org/
| ■ 池田先生の略暦 ヘルツカ先生へ |
| Date: 2010-08-25 (Wed) |
原田老師
日本は猛暑が続いていると聞いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
マルゴットに手伝ってもらいまして、下記の文をヘルツカ先生に送らせて頂きました。
Yoshikazu Ikeda
*1940 geboren in Tokyo
1968 - 1987 Professor für Philosophie und Ästhetik an der Meijo Universität in Nagoya
1973 Promotion in Philosophie an der Freien Universität Berlin
1977 - 1978 Gastprofessor an der Freien Universität Berlin
1988 - 1992 Direktor der Kunsthandwerkerschule "Hida Global Institue of Human Art" in Takayama
1992 - 2008 Philosoph und Künstler in Takayama
1995 - 1998 Stadtrat in Takayama
2007 Gründung des Hauses der Philosophie "Kojin-sha" in Takayama
+ Juli 2008 gestorben in Takayama
こちらは皆元気にしております。今、母が福岡から来ておりますので、毎日買い物に行ったり、名所を見物に行ったりしております。
忠雄もテーブルなどによじ登るようになりましたので、ひと時も目が離せません。この週末はまたこちらの両親の所へ行く予定にしております。
皆様にも宜しくお伝え下さい。
禅勝九拝
| ■ 真民さんの逝去 |
| Date: 2010-08-10 (Tue) |
> 中日新聞『中日春秋」12月15日を開き、真民さんの逝去を知った。先日飛騨観音霊場のホームページに、会長になった挨拶をのせたが、私の信仰の原点に真民さんぬきでは語れなく、こんな文をのせた。
平成十八年秋、拙寺に霊場会の皆様の参加を頂き、秋期霊場会法要を厳修し、新十一面観音様の開眼、安置することが出来ました。飛騨は、信仰の深い風土で、円空上人も、永く飛騨この地に滞在し沢山の観音様を彫って下され、庶民の悲しみ、喜びの暮らしの中に観音様が生きています。「念ずれば花ひらく」仏教詩人坂村真民さんは、原田和尚の大切な心の師です。明治四十二年熊本に生れ、八才で父を失い、五人の兄弟の兄として母を助けての青春から幾多の困難と立ち向かい悲しみの人に勇気を与える詩を書き、九十五才の一昨年三月まで、毎月「詩国」を無料で配布してこられました。
呼応 坂村真民
赤ん坊がなくと すぐ飛んでくるお母さん
どんな小さな声でも 聞きつけて
すぐに飛んでこられる観世音菩薩様 ああ
この呼応の ありがたさよ 不思議さよ
今朝も、飛騨の山河を抜けて悠々小八賀川の川辺を右廻り
にて、天地いっぱいに歩行する。足を拝む信仰こそ佛道の原点。
尊いのは足の裏であるの真民思想。
音もなく落ちた朴の葉 広がる山麓に裏を見せ表を見せて
寂滅の世尊の教えを示す ありがとうございます 真民さま
詩国五百号記念の松山大会に参加した日の鳩杖の真民のお姿を偲びつつ。 飛騨 正宗寺内 原田 道一
| ■ 伊藤ていじ主催による高山サマーセミナーの企画運営 |
| Date: 2010-08-10 (Tue) |
伊藤ていじ中谷正人(なかたにまさと)略歴
1948年 神奈川県生まれ
1971年 千葉大学工学部建築学科卒業
新建築社入社/『新建築』編集部
1973年 伊藤ていじ主催による高山サマーセミナーの企画運営(77年まで5年間開催)
講師:1973:磯崎新・粟津潔・石毛直道・篠田正浩・篠原一男・山崎正和・大江宏
1974:槙文彦・東孝光・二川幸夫・梅原猛・岸辺成雄・泉真也
1975:浦辺鎮太郎・池田武邦・磯崎新・宮脇檀・筑波常治・石井幹子・岸辺成雄
1976:吉阪隆正・長谷川尭・安藤忠雄・石井和紘・重信常喜・中平卓馬・原田道 一・M.シュパイデル
1977:流政之・磯崎新・川上秀光・漆原美代子・伊藤文吉・永六輔
1975年 第1回「新建築講演会」(福岡)の企画運営.以降,全国で毎年2〜4回担当
1975年 5/14〜6/4 EUROPE視察/ITALIA, AUSTRIA, SWISS, GERMANY, FRANCE,DENMARK, FINLAND
1982年 9/11〜25 AMERICA視察,各地で建築家と懇談/SAN FRANCISCO, CICAGO,BOSTON, NEWHAVEN, NEWCANAAN, NEW YORK, PHILADELPHIA, DALAS,FORTWORTH, HOUSTON, LOS ANGELS/Philip Johnson, Cesar Pelli,Stanry Tigerman, Richard Meiyer, James Wines, Andrea Leers, RobertVenturi, Paul Cannon, etc.
1986年 9/29〜10/8 ART-DECO IN NEW YORK視察(NEW YORK, CHICAGO)
10/9〜14 LOS ANGELES/MOCA(設計:磯崎新)取材
1988年 新建築『住宅特集』編集長に就任
1989年 EUROPE視察/WIEN, MILANO, COMO, NAPOLI, ROMA, EUR, PARIS
JIA中国四国支部合同シンポジウム/パネラー(岡山県北木島)
1990年 3/27〜4/11 "20th CENTURY ARCHITECTURE(建築20世紀)"取材のため渡 欧/MILANO, TORINO, MODENA, BOLOGNA, VENEZIA, SAN VITO, VERONA, COMO,BASEL, DORNACH, LA CHAUX-DE-FOND, RONGCHAMPS, LYON, MARCEILLE,BARCELONA, WIEN
9/ ABITAREITALIA(ITALIA, VICENZA)にイタリア貿易振興会より招聘を受け,シンポジウムの参加,さらに1週間,ヴィチェンツァおよびヴェネツィアを視察(日 本側委員長:槙文彦)
11/ 日本建築学会『建築雑誌』1月号「建築ジャーナリズムについて」執筆
1991年 『新建築』編集長就任
5/ 京都市建築士会のシンポジウムのコーディネーター/山本理顕
8/ 高知県建築士会主催サマーセミナー講師
9/ ABITAREITALIA(京都)にイタリア貿易振興会より招聘を受ける
1992年 5/ 京都市建築士会のシンポジウムのコーディネーター/北川原温
6/ 香川県坂出市でJIAシンポジウムコーディネーター/竹山聖,小林克弘,古谷誠章
7/ SWEDEN,FINLAND両国の外務省より招聘を受け,両国各地を視察 (16days)
9/ ABITAREITALIA(ITALIA, CARRARA)にイタリア貿易振興会より招聘を 受け,シンポジウムの参加とカラーラ,シエナ,サンジミニアーノ,ピサなど を1週間視察
昭和女子大学講師
1993年 新建築社編集部長就任
5/ 京都市建築士会のシンポジウムのコーディネーター/妹島和世
6/ JIA全国大会青年建築家会議のパネラーとして出席
9/ 日本建築学会全国大会(東京・都立大学)にパネラーとして出席
1994年 新建築社にて『建築ガイドブック』の編集・執筆を担当(8月に刊行)
4/15 新建築社退社
東海大学工学部建築学科非常勤講師
9/26 有限会社中谷ネットワークス設立
1995年 3/16 『土佐派の家』刊行(企画・編集を担当)
3/18 これからの街なみと環境づくりを考えるシンポジウムの基調講演
パネルディスカッション・コーディネイター
パネラー: 橋本大二郎高知県知事
鍵岡正謹高知県立美術館館長
伊藤憲介高知県住宅供給公社理事
山本忠司日本建築学会四国支部長
山本長水新日本建築家教会四国支部長
3/20〜26 ITALIA/PARELMO 石材展に招聘され渡伊
4/1 「土佐派の家」シンポジウム(高知県主催)の基調講演およびパネラー
1996年 5/30 『土佐派の家/PARTU/技と恵』刊行(企画・編集を担当)
6/12〜24 HELSINKI市の招待によりFINRAND視察
8/19〜24 「木造の伝統と前衛」セミナーを主催し高知県で実施(以後毎 年7月に開催)
12/14〜21 中国・浙江省、福建省へ木造橋の撮影取材
1997年 日本フィンランド都市環境セミナー「木と暮らす−日本の作法・フィンランドの知恵」展キュレーター(会場:高知県、長岡市、旭川市、大分市、
東京、松江市等にて開催)のキュレーションを担当
そのため1/11〜18、2/8〜15の2回にわたってヘルシンキ市との取材打ち合
わせのため渡欧。展覧会は6月から開始。
1/3〜6 『新建築』掲載のシンガポール・マリナシティへ取材旅行
8/5〜16 青森県東通村でログハウス建設ワークショップを開催
10/11〜19 アメリカ広葉樹輸出協会(アメリカ農務省管轄)の依頼により
アメリカ・アパラチア山脈へプレスミッション参加(参加国はヨーロッパ、アジアから11ヶ国)
10/30 『CASA BRUTUS』木の生活特集に「現代木造住宅の問題点」執筆
12/1 個人的な情報ネットワーク「PINS」創設、以後毎月機関誌発行
1998年 『家庭画報』3月号「棟梁のつくる家」企画および執筆
10/30〜11/1 日本文化デザイン会議'98青森にパネラーとして参加
この間,NTV(11PM)の企画協力および出演(沖縄地方の建築の解説),現在
テレビ朝日で放映中の「渡辺篤の建物探訪」の企画・取材協力,その他各種週刊
誌等の企画などにも協力.
東京ガスのPR誌『GINZA POCKET PARK NEWS』に1年間(1985)連載.
芸術雑誌『三彩』の年評/建築の項目を1992年から3年間執筆.
現在の業務 :1993年以来TOTO(東洋陶器)のPR誌『TOTO通信』の企画
に協力して連続執筆中
セントラル硝子のPR誌『GLASS REVIEW』、TOTOのPR誌『住空 間』の企画編集協力および執筆
その他,展覧会・シンポジウム等の企画・コーディネイト,書籍の企画 編集,企業内研修会の企画運営,雑誌等特集記事の企画、取材および執筆,ル
ポ記事等を執筆
現在
有限会社中谷ネットワークス代表取締役
千葉大学都市環境システム学科非常勤講師
武蔵野美術大学建築学科非常勤講師
社団法人日本建築学会建築文化事業委員会幹事
高知県建築設計監理協会「土佐派の家」相談役
島根県「山陰の風土に適した省エネ住宅」検討委員会委員
島根県大田市新しい家づくり「素舞流」アドバイザー
青森県下北郡東通村間伐材利用促進委員会委員
ペンシルバニア大学サマースタジオ講師
主催による高山サマーセミナー
| ■ ドイツ ドモッホ先生から |
| Date: 2010-08-08 (Sun) |
Thursday, August 05, 2010 12:47 AM
Subject: Thank you so much
> Dear Harada family,
> after I have returned from France where I met my Kyudo teacher Shibata
> Kanjuro
> XX., I found your letter and the wonderful book with calligrafy, which is
> made
> really professional. I thank you very much for thisn wonderful present!
>
> I often think of your visit and our experiences which we shared. I only
> regret
> that it has been so short and that you had not yet overcome the jetlag; I
> always
> need 7 days for this process when I come back from Japan. I regret that I
> have
> considered this too little and that I have put you into stress.
> My Kyudo friends also speak of you and we share the pictures made during
> our day
> trips. If you come again - which I do hope - we should have more time and
> I
> would show you around in the nearer surrounding where we have not so much
> travel
> by car.
>
> From Japan I have good news: My friend Hideyuki has received inka shoumei
> by
> Harada Sekkei. And it seems that I may visit Japan next year already in
> springtime or in autumn maybe in both the seasons. Two of our kyudo
> friends
> would like to have an introduction into shikantaza and they are figuring
> out at
> which time they may be off duty. When plans become clearer, I shall reprot
> and
> ask for chances.
> May you all be happy and in good health!
> With warm greetings from the rhineland
> Walter
>
>
>
>
>
| ■ 矛盾だらけの禅』 |
| Date: 2010-08-07 (Sat) |
禅とは純粋なること」
平成22年(2010年)4月27日掲載
ローレンス・シャインバーグ氏に聞く
一九九五年にアメリカで刊行された『AMBIVALENT ZEN』という本がある。著者のローレンス・シャインバーグ氏は青少年時代から東洋思想に親しみ、その後、禅と空手の修行に没頭してきた東洋通の作家だ。特に禅については、アメリカでの禅布教にも尽力した臨済宗妙心寺派龍沢寺元住職の中川球童師家(故人)に師事。一九七〇年代から約四十年、研さんを続けてきた。その経験をつづった『AMBIVALENT ZEN』は、禅を求めるアメリカ人のための絶好のガイドブックとされており、このほど清流出版から『矛盾だらけの禅』の題で邦訳本も刊行された。「真実の禅は世界中どこにでもある」と語るシャインバーグ氏に、アメリカの禅事情を聞いた。(聞き手=小川寛大)
アメリカの禅修行者たちは非常にまじめで熱心だと、日本でも有名です。
◆熱心にならざるを得ない状況がありますからね。アメリカの禅堂はどこも貧しく、関係者の熱意がないと成り立ちませんから。一部にはお金持ちの支援を得て、さまざまな設備を整えている所もありますが、例外的です。ほとんどの禅堂は電気代も払えないような状況の中、ただ関係者の熱意だけで成り立っています。
だからこそ真剣に修行する。
◆西洋人は生活様式の違いから、正坐さえ満足にできない人も少なくありません。そうした人々が坐禅をするには、相当の熱意と努力が要ります。結跏趺坐の姿勢を取ること自体に真剣さがあるのです。
率直に言って、アメリカ人参禅者から見た日本仏教の現状はどうですか。
◆私は日本の僧堂でも修行していたことがあるのですが、そこで日本人の修行仲間からこう言われたことがあります。「シャインバーグの取り組みようはクレイジーだ」と。お寺に生まれた人でしたがね。
われわれは彼らと違い、ライセンスを取得するために修行しているのではありません。また先ほど言った物質的、身体的事情から、本当に火の玉になって取り組まないと、坐禅をすること自体できない現実もあります。そこから意識の違いはどうしても出てくるのでしょう。
日本の禅僧の中には、そのうち禅の中心は日本から欧米に移ってしまうのではと語る人もいます。
◆興味深い意見です。ただし、私はそうした傾向を一般化することは危険だと考えています。アメリカ人参禅者の中にも不誠実な人間はいます。また日本のすべての禅僧が堕落しているわけでもない。事実、私を指導してくれた中川球童老師は、それは立派な日本人でした。
思い出を語っていただけますか。
◆信心深いとか、仏教の知識があるとかより、まず純粋な人でした。何よりも坐禅を重視し、仏様の教えを口頭で説くことはほとんどありませんでした。また日常の生活を非常に大事にしていました。自分の手で掃除をすることが大好きで、ほかの人が先に禅堂の掃除をしたら機嫌が悪くなるような人でした。
そうした人柄に引かれたわけですね。
◆若いころから東洋思想に興味はありました。しかし私は禅を学んだというより、中川老師を学んだのです。彼がいなければ、ここまで禅の修行をすることはなかったでしょう。私だけではない。中川老師がいなかったら、ここまでアメリカに禅が普及したかも疑問ですね。
欧米ではキリスト教の聖職者が坐禅をするなど、必ずしも禅と仏教信仰が結び付いていない印象もありますが。
◆中川老師はその辺りには寛容でした。むしろ「仏教を知らない方が坐禅するのにいい」と。変に知識があると、逆に本当の禅から遠ざかると言うのですね。
ある日本人僧侶が中川老師の禅堂へ来て修行していたことがあるのですが、「彼はたくさんの考えを持ち過ぎていて駄目だ」といつも不満げでした。その人は日本では優秀な僧侶とされていて、今ではある大きなお寺の住職なのですが、中川老師は否定的でしたね。
今では私もその考えがよく分かります。いつもキリスト教徒の参禅者と、仲良く坐っていますよ。
欧米の禅については、カルト的な側面があるとの批判もあります。例えば坐禅と麻薬を併用するなど……。
◆重要な指摘です。また禅の指向する「無」「空」といった概念から離れ、具体的な超能力などを求める傾向にも批判がありますね。
そうしたものは無知から来る行動です。しかし禅とは、自分が無知であることを知るところから始まった教えなのです。きちんとした指導者がいれば、必ず解決する問題です。
また禅に限らず、すべての宗教はカルト化する危険性を持っています。しかしその危険よりはるかに危険なのは、宗教のない社会が到来することです。それははっきりと言い切れます。
シャインバーグさんが禅に求めるものとは何でしょう。
◆純粋なることです。中川老師がそう生きられたように。東南アジアの寺院に行くと金ピカの大きな仏像などを見ますが、ああいうものは本当の仏教ではないと彼は言っていました。
人間の苦しみは日本にもアメリカにも平等にあります。ですから禅もそれを解決するために、日本にもアメリカにも平等にあるのです。
ただ日本という国には本当に感謝しています。禅という伝統をはぐくみ、中川老師のような方を輩出してくれたことに対して。
『矛盾だらけの禅』の原著出版から十五年。その間で、何か自身に変化は。
◆何も変わりません。私は永遠に初心者で、今も変わらず愚直に坐禅するだけです。ただ、十五年前より少しだけ誠実になれたかな、とは感じています。
『矛盾だらけの禅』は定価二、六二五円。清流出版(電話
| ■ スイスJacek & Ediths |
| Date: 2010-07-27 (Tue) |
Dear Hojo-san, dear Fumiko-san
A month ago you have left Switzerland after a few days stay. We spent together very nice
and unforgettable time which we will keep in our memory.
In the meantime we have received from you two DVD’s and a
very beautiful photo book with Hojo-san’s calligraphy on an exposition. Many thanks for everything. We followed on the
DVD your trip to Europe with a great interest. We were able to see your friends in Germany in various situations.
We
would be happy to meet you again in future and wish you good health and all the best.
Best regards from Winterthur
Jacek & Edith