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8月27日夜の夢
  Date: 2008-09-03 (Wed)

個人記録 アルファ
8月27日夜の夢 1990年
鎌谷龍仙老師が、白い服(インド人が着るような)で現れ、私に話かける。
あんた達が書いていること、いろいろ知っているよ。あれはあれでいい。
8月27日小倉玄照老師からの返信。最近の時代について、接触不良時代論
8月28日サンフランシスコの鈴木俊龍老師夫人からのお便り、来年帰国する
8月28日本堂で掃除中、しゅみ壇から梯子と一緒に落ちる。左足の怪我
8月30日夕 小坂、奥田さん来寺、白い観音様の足に触れた夢を見た。「笑顔で」
と伝えて去っていった。
8月31日高山市菱川宅で、mariさんに会う。来年日本に来て、社会学、宗教を
を勉強したいという。
8月31日北米オレゴンのted harirsonから手紙。来春三月来寺の希望

〓 声帯に異常あり 春から声帯に異常あり、気にしながら、病院を避ける。
医者により、診断が、違う 高山市加藤耳鼻科、7月診断、きれいな声帯
高山市斎藤耳鼻科8月17日診断、声帯にポリ−プあり
手術せよ。久美愛病院を9月5日に手術の予約。
高橋三郎先生(金沢で開業)名古屋の藤田学園、保険衛生大学病院岩田先生を紹介し
てくださる。
8月26日午後名古屋でホテルに泊まり、翌朝名鉄「前後」駅下車バス利用病院へ
8時半病院受付する。「ここは大学病院ですから学生が立ち合うことがあります」と
表示あり。耳鼻科は来患でいっぱい。きびきびしたスタッフで処理していく。岩田先
生他、2名の先生が並んで診断。岩田先生は七十才前後に見える元気のいい先生、学
生をよんで「夏休み勉強したか、答えてみい」と名古屋なまりで学生にハッハをかけ
ながら、来患には、ていねいに、しかも、大切なときは、大きな声で、しっかり顔を
みて相手が、頭をふってうなずくまで説得される。やがて、私は若い女のインタ−学
生に呼ばれて、問診を受ける。順番がきて、私の顔を見るなり「声をつかい過ぎたか
」と問い、「そうです」答え、鼻、耳のチェック、喉をみて「大丈夫、切らなくてよ
ろしい、慢性の声帯疲労。皮膚がただれている」「声帯検査に来て見なさい」終。

土と色のよろこび展
  Date: 2008-09-03 (Wed)

土と色のよろこび展 協賛

『土を語る芸術職人たち』

場所 丹生川村 北方 正宗寺本堂 電 78−1080

日時 9月21日 午後7時から9時 コンサート9時半終了

出演者 挟土秀平 高山市【秀平社挟土組】 井本雅弘 丹生川村【社寺建築 棟梁】
吉島忠男 高山市【設計・建築家】 吉永太市 滋賀県【滋賀県元福祉施設長】
谷口いわお高山市【藁の大学学長】

第2部 タイトル 《お楽しみ ロックコンサート》投げ銭式

● バンド名は、ダミンです。●命のふしぎ、大切さを唄う ロック
バンド ダミンです ●メンバー3人のうち、二人が、丹生川村 大
萱に在住 ●全国各地で、コンサート活動をしています。


父の手−幼き日の思い出 土の詩と、土の宗教を
みのりの秋、稲田に立って わたしはこうして教育され
垂れ穂房なであげたもう わたしはこうして百姓になった
父の手は
千年の仏殿ふかく
合掌のおん手であった 永田喜代造 第二詩集『土の法悦』より

『ふうどピア』という言葉を発明した玉井袈裟男(松本市)風土舎創立宣言より

風土という言葉があります
動くものと 動かないもの
風と土 人の性と土の性がある

風は 遠くから理想を含んでやってくるもの
土は そこにあって生命を生み出すもの

君 風性のひとならば 土を求めてふく風になれ
君が土性の人ならば 風を呼び込む土になれ


原田道一和尚(禅アート研究所)の企画です。誰でも参加を歓迎し、会費無料です。コンサー
トは、投げ銭方式です。
飛騨丹生川の生んだ農民詩人、永田喜代造氏の第二詩集「土の法悦」を土台として土を、そし
て風土を語ってもらいます。
挾土秀平氏のルーツは、丹生川で、左官芸術家をめざし、新鮮に土を語ってくれます。全国的
な活動をしている彼のメッセージは、土と人間の基本的な問題を提起してくれるでしょう。
吉島忠男氏は飛騨の建築や文化について、造詣の深い日本の代表的建築評論家、伊藤ていじ先
生の愛弟子として、今や飛騨の建築の世界性を語る第一人者です。
特に伝統的な建築物の並ぶ、高山市内の日下部、吉島邸から下る大新町の町並みと丹生川村の
小八賀川の北側の正宗寺に至る街道の農村原風景を、飛騨の二大街道として、専門誌に紹介され
ています。
井本雅弘氏は、地元の宮大工として、活躍され、今回、村文化財として指定になった正宗寺本
堂・開山堂の改修工事をされている棟梁です。飛騨の匠の伝統について語っていただきます。異
色の農民、藁の大學を提唱の漆垣内の谷口いわお氏にも参加いただきます。
これらの専門家たちと共に飛騨の文化・風土に関心あるお方に集まっていただき、土を通して
の自己表現の感動を共有して、「土と色のよここび展」のお祝いとしました。
飛騨丹生川の皆様にとっても高い感性と、伝統的な農村生活の知恵の豊かさのふるさと再発見
の機会になれば幸いです。
主催 ■小八賀川の緑と文化を守る会 ■禅アート研究所

参禅道場の会 設立二十五周年大会
  Date: 2008-09-03 (Wed)

「曹洞宗参禅道場の会 設立二十五周年大会」に参加して
正宗寺住職 原田 道一

昭和五十六年曹洞宗参禅道場の会を榑林皓堂老師が創立されて以来、関係各位の努力により、今回創立二十五周年記念大会が開催され、この会に私も、家内共々参加できたということは、法縁とは申せ シンプルで感動のありがたい記念大会でした。
「共に坐し、共に聞き、共に語らん」
の標語が、本会の指標として今回発表されましたが、参禅会にふさわしい、とても分かり標語で、全国各地、自坊の参禅会の活動にも、使用したいものです。
帰寺して、参加者全員の記念大会撮影されて記念写真眺めながら思いますのは、東京近辺の在家の一般参禅者、僧堂関係の若い雲水僧が参加して、共に坐し、共に学んだことは大変新鮮さを感じ、明日の参禅道場の活動発展に意義がありました。
二十五年の綿密な活動と、企画から準備、実行に事務局の実践の結果であり「為法不為身」の実践であったと参加者として感謝申し上げます。

記念講演 「徹通義介禅師七百回御恩忌を目前にひかえて」
−永平寺・総持寺を結ぶ大乗寺ー

東隆真老師の講演を拝聴して
私は、かつて小倉玄照老師の名著「道元禅師旧跡紀行」の出版記念会が東京であった折駒沢女子大学にお勤めの東隆真先生が来られたことを記憶していますが、今回、謦咳に触れての初相見となりました。
曹洞宗宗務庁の研修道場に講師として登場の東隆真老師は、渾身の情熱に聴衆を魅了した。用意された原稿をもとに、一語一句を厳密に語る東隆真老師の音声は、今も私の魂を歓喜させています。道元禅師の御一代記の中に、二代懐奘禅師と共に、三世義介禅師が常に登場します。中でも、木の芽峠は、大切な場面です。
今回、義介禅師に焦点を合わせての講演は、私には初めての聴講でした。
特に義介禅師七百回忌に、大乗寺住職 東隆真老師が大乗寺の御開山 義介禅師を語られる宿縁を老師自身感じて、感無量であったろう。
講演の冒頭、講師から限定された時間のため、十分お話ができないと、お断りがあった
「無名に等しい義介禅師」「義介禅師自らは、わたしのことは、そっとしていてくれ、と申されているかもしれませんが、義介禅師について詳細不明の点が多いことは、法孫の怠慢であると申さねばなりません。」と激しく説得、我々の責任を明らかにされました。
司馬遼太郎氏の「街道を往く・福井編」の義介禅師に関する記事に対する抗議、など、論証をあげて、これから始まる義介禅師七百回忌にふさわしいお話でした。
かつて、永平寺の機関誌「傘松」に、小倉玄照老師が、毎月、道元禅師旧跡紀行を連載され、その中で、大日能忍を始め、日本達磨宗に関する旧跡の探索に力を注ぎ、「波着寺」が登場しました。今回、「なみつき寺」には関して東隆真老師も、詳しく探索されていて、小倉老師同様、国内外、中国まで足を伸ばされています。
今回の御講演を聞きながら、大変参考になる調査研究をされての論証であるとお聞きしました。
拙僧も、帰山して、昭和五十五年、永平寺二祖国師七百回大遠忌局発行、「永平二祖孤雲懐奘禅師」昭和三年発行 編集兼発行人 村上素道 復刻版」を再読した。
第八節「弉祖と徹通義介」という小伝がある。(村上老師は、熊本、聖護寺を守られた尊い御方と聞いている。)貴重な文面であるが、複雑な歴史の考察である。
それ以後の研究は、どうなっているのか。
浄土真宗で蓮如上人の御遠忌記念の時に、蓮如が話題になり、巷の書店に五木寛之氏のの著書が並んだ。是非とも、徹通禅師の遺徳を偲ぶためにも、新しい角度から義介禅師研究がほしい。特に永平寺と総持寺を結ぶ大切な義介禅師に、新しい視点での顕彰が、行われることを望み、東隆真老師の原稿後半の発表を心待ちにしている。
今回記念大会レセプションにて駒沢大学学長、大谷哲夫老師に初相見が出来た。大谷老師は、かつて、宗報に「折々の法話」を連載され、永平道元禅師広禄により、私は、道元禅師のナマの声を聞くことが出来た。鎌倉下向の後、永平寺に戻られて大衆に「私の佛法は『明得、説得、信得、行得」なんだよ。』と示されている。道元禅師七百五十回忌記念として大谷老師は「永平の風」を伝記小説風にお書きになり、大遠忌にふさわしい記念塔になっている。今回の義介禅師遠忌記念として、是非、どなたか義介禅師顕彰にふさわしい、一般向きの書物を書いてくださることを期待する。

ぐてつ
  Date: 2008-09-03 (Wed)

誓願に生きる菩薩たち

正宗寺住職 原田 道一
朴の花 なほ 星雲の志

今年も、緑の飛騨山麓に、朴の花の咲き始めたのを確認した。曹洞宗参禅道場の会結集会場、遠州、石雲院の帰りJR高山線下呂を過ぎたあたりであった。私には、朴の花は、天を仰ぐ、佛華であり、大切な花である。 。
天地の理法は、人智を越えて偉大であり、働きづめに働いて、我々を守ってくれている。
今回、青山平立会長老師より愚徹賞を頂戴し、大変光栄に存じます。日本各地に隠れておられる尊者を拝しつつ、感謝申し上げます。

●会場 石雲院
今回の会場を提供下さった石雲院の住職 正道老師は、拙僧と、東京在学中の同期でした。いつも「草取りをしているよ」と申されて、余計なことは申されませんでした。今回、幸運にも、会場が、老師の護持されている禅道場と楽しみに参りましたが、聴きにし勝る雄大な自然環境の中の大伽藍、龍門山 石雲院の名の如く、雲上のお寺でありました。
堂頭老師は、今回参禅道場会の典座を一人で引き受けられていました。これには、参りました。典座教訓の老典座の教えそのものでした。今回の参加者五十名を超える薬石の「味御飯」「煮物の芋」の味は忘れられません。毎年子供の会を開かれている様子が、山内の掲示写真で拝見し、駒沢大学児童教育部の出身の真面目を発揮されていることに、低頭です。
●事務局
今回の参禅道場の会は、大変企画が優れていました。
特に、講師に井上義臣老師のお話は、貴重な教本テキストを用意下され、曹洞宗の行持の原点を、長年自らが究明されているお方で、「三時の行持、坐禅、看経、作務」を中心に、恩師杉本老師から学ばれた事を土台に理論的に諸堂の諸佛のまつり方など微細にお話くださいました。拙僧の日常を点検し、大いに反省する機会をいただきました。
有名な鈴木大拙先生の言葉に「現代の禅者には慈悲心がない」と忠告されていますが、朝晩の坐禅、看経。作務、の一々について、信仰心に裏打ちされた日常が要求されます。拙寺では参禅日には。朝晩の梵鐘を、参禅の方にも撞いてもらいますが「お釈迦様のお声を頂戴するのだから、出来るだけ丁寧に一声毎に礼拝するんだよ」と教えてあげたくてはなりません。参禅道場会の役員の皆様の道心、菩提心の発露としての準備があったからこそ、参加者は安心して研修に参加できました。法のために身を捧げておられる諸師に深く感謝申し上げます。
参加者の中には、拙僧の如く吉岡老師の電話の説得に、参って参加された方もおられるでしょう。
師の法に対する親切が今回の若い参加者を引きつけたのでしょう。話が飛びますが、井上老師の五陀羅尼については、何も知りませんでした。
数年前、インド、ブッダガヤでの 世界平和千僧供養法要にて、チベット仏教とのご縁をいただいている拙僧は、特に読経三昧に明け暮れる摂心法要とも言うべき行持に参加した経験が、今回の井上老師の信仰論に重なって、真面目に学びたいという課題をいただきました。

愚者は天然型修行を

以前、南禅寺の柴山全慶老師が申されたお話の中に「初期の禅僧たちは、それぞれの環境条件によって個性的求道の道をたどり、いずれも天然孵化によって道を完成した方達が大勢おられるようだ」と
愚なる拙僧は、誤解を招くが、天然孵化型の修行の迷路を歩んだ。出来たら、既成の人口孵化の修行のレールで安全に到着点に行き着けばよいのだが。
無駄ばかり得意とする愚徹なる拙僧は、廻り道が多かったが、これが、有り難い。階段の一段目から、二段目に時間がかかる。どうしても最初の一歩目にうまく歩が出せなかった。遍歴して、知識を尋ねたのも、そのせいかもしれない。
適温の人口孵化の雛になることを失敗したのかもしれない。

水鳥のゆくも、かえるも跡たえて
されど 道を忘れざりけり

道元禅師 傘松道詠英

二グレン先生の元気な便り
  Date: 2008-04-02 (Wed)

Dear Hojo-san and Naoko,

Thank you so much for your mails and for your worries about me. I am
regularly thinking about you and many times I have been wondering how
things are at Shoso-ji? I am very mych longing to meet all of you again!

For the last years I have been working with a research project on folk
performing arts in Bengal (Bangladesh and Indian West Bengal) and it was
ublished as a book of 450 pages a year ago. At the same time I have been
project manager for a project to help economically deprived and
underpriviledged children in South Asia and Southeast Asia. We are using
performing arts to help the chldren to raise their self esteem and to
get them to be aware of their rights and opportunities. I spent quite a
lot of time among the poor children in the countryside and I felt the
work has been quite rewarding in may ways, not the least for me as a
fulfilment to my wish to help others.

Now I am in India for some time and then I will go further to
Bangladesh, Laos, Vietnam and some not so developed areas of China.

I was actually planning to visit Japan this year but as it looks now, I
am not sure I will have the economy to spend time in Japan as it is so
expensive to visit without fundings. But sooner or later I will be back
again - my mind and thoughts never left Japan and all friends there. And
most of all, I never foreget the great influence Hojo-san and everybody
else at Shoso-ji have had on my life. You are always a part of my
activities and my prairs.

From next year I hope to start a new research project at Stockholm
University where I will try to find out in what way the performing arts
(theatre, dance, song and music) are used in the mystic traditions of
Buddhism, Hinduism and Islam. I hope to get governmental support for
that research and if so, it will definitely bring me back to Japan!

I am looking forward to that and to meet all of you again in a strong
and healthy condition.
As for myself i can assure you that I am in good health and that I
refuse to get too old to stop to understand more about people's life and
to do what I can to help others.

Again, thank you very much for your concern and strong commitment to
keep in contact,
with respect and many warm regards,
Christina




小林和男氏の手紙
  Date: 2008-04-01 (Tue)

和尚さま
お送りいただいた対談面白く拝読しました。
すぐにメールでお礼をお伝えしようと思いましたのですが、
現代をダメにしているのがパソコンだと言われて、手紙を
認めているという次第です、笑い・・。
 久しくお邪魔していませんが、お変わりなくお元気で
さまざまな活動をなされておられることを嬉しく思って
います。小谷さんとは時折、電話で話しますがお忙し
そうで、なかなか東京で会うこともできません。
 四反田の女将はお元気で名作を描いておられる
ことと思います。ともに、どうぞよろしくお伝えくださいますように。
 対談で旅が話題になっていますが、旅をすれば
日常を越えたことを考えますね、大変面白い出会いの
対談でした。
 私も旅を続けているような暮らしですが、この旅は
いろいろな出会いがあって実に心豊かになる旅です。
私の覚え書きのようなものを本にしました。
妙なタイトルになっていますがお笑い下さい。
 川のせせらぎの音とともに聞いたお寺の鐘の音は
耳に残っています。あの通りからもう電柱は消えましたか。
電柱と役場の拡声器からの時報がなくなったら
また、お邪魔して乗鞍のスケッチをしたいと思います
 丹生川の皆様にどうぞよろしくお伝え下さい。
ありがとうございました 
  三月二十一日    小林 和男

立ち返りたい和食の基本
  Date: 2008-03-01 (Sat)

立ち返りたい「和食」の基本

 この今だこそ

けんちん汁、がんもどき、精進あげ、金山寺みそ。いず

れも禅宗と関係の深い食べ物である。禅宗とは坐禅を組む

ことを修行の眼目とする仏教宗派のこと、日本では臨済宗・

曹洞宗・黄檗宗の三宗派がある。

 宗教と食べ物がなぜ結びつくのか? という疑問を感じ

る方もいらっしゃると思うが、実は禅宗では「食」を極

めて重視している。

 これは仏教自体が「食」を重んじているためである。仏

教を創始した釈迦(紀元前五六六−紀元前四八六年ごろ)、

諸説ありが、「食」に盛んに言及しているのは良く知ら.

れている。

また、『九横経』と言う経典には、人が思いがけない

災難で死ぬとする要因を九つあげているが、そのうちの四

つが、食べすぎ、食べ間違いなど「食」にまつわることである。

禅宗は仏教が古来より説いてきた「食」の教えをさらに深化

させた訳だが、中でも日本曹洞宗の開祖道元・は禅宗が説く

「食」の思想を体系化したことで知られていてる。

「典座教訓」は道元の著作のひとつである。典座とは、

僧堂で修行僧に供する料理を作る役職者のこと。同書は典

座に対して、料理を作る際の心構えや料理法を説いたもの

である。

同書にある教えをいくつかを列挙しよう。

 ○食材は自分の瞳のように

大切にしなさい。

○ 食材は量の多少や質の善しあしに関係なく、

○ 真心をこめて料理しなさい。

○食事を作るときは」大勢の修行僧に奉仕できる喜びを

もって作りなさい。

○料理する際には、食材個々の持ち味を引き出すように味

つけしなさい。

 総じていえば、食材に対して最大限の敬意と感謝の念を

もって料理する、となろうか。

 仏教では殺生を戒めているから、禅宗の料理は植物性食

品だけを使った精進料理になる。だが、本格的な精進料理

を食べた経験のある方ならご存じだろうが、肉・魚が一切

ないのに、ボリュームも味わいも実に豊かである。これは

料理人が、食材に対する敬意と感謝を胸に、真心を込めて料

理した結果なのだ。

道元はまた、『赴粥飯法』で、食事の食べ方についても

こと細かく指示している。内容を端的にいえば、食べ物に

対する最大限の敬意と感謝の念をもって食べる、となろうか。

不作法であり、もったいないと道元は力説する。

 道元が体系化した禅宗の「食」の思想が、その後の日

本の食、つまり和食の発展に大きな影響を与えたことは、

r多くの研究者が指摘している。

和食の基本には「食」に対する限りない敬意と感謝

の念があったのである。

だが、現代の食事事情はどうも、敬意・感謝の念とは

かなり縁遠いようだ。

 最近は「食」をめぐる暗い話題には事欠かない。昨年は

食品偽装が相次いで発覚し今年に入ってからは、中国の

食品メーカーが製造した冷凍ギョーザに農薬が混入んてい

た事件で大騒ぎになっている。      

 企業の責任は重大である。

しかし、同時に私たちひとりひとりの食に対する姿勢も考える

える必要があるのではなかろうか。

筆者はどうも、日本人全般の「食」に対する敬意と

感謝の念の希薄化が、事件を誘発する温床のように思えて

仕方がない。

 日本人は今、作る・食べるの両側面で、和食の基本に立

ち返る時期にきていると思う。

 (もりむら・むねふゆ=作家)

    ◇





CULTURE




飛騨高山風たより 池田ほういち
  Date: 2008-02-27 (Wed)

作家の五木寛之が「日本は鬱の時代を迎えた」と云っ
ているが、たしかにこの国の歴運は拡大を止めて衰退と下
隆に向っており、息苦しい沈滞の気分が広がっている。
しかしこれはそんなに嫌なことであろうか。私は必ず
しもそうは思わない。いやむしろかえって良いいことである
と思っている。
最近のテレビのお笑い番組の愚劣で空虚な空騒ぎを見
ていると − 私はむろんテレビはニュースとスポーツと
「水戸黄門」以外はほとんど見ないのであるが − どうや
ら日本社会の低俗化も底の底に辿りついたようで、もう
少し地道な、内面的な反省が必要となったのではないかと、
思われてならない。
考えてみれば、外からの、これでもか、これでもかの刺
激にふり回されて右往左往するのはずいぶんと疲れるこ
とで、「存在のあまりの軽さ」に足元がふらついて、危う
いのである。
ならば一度足元をしっかりと見つめなおして「過し方、
行く末」にじっくりと悪いをはせてみたくなるのも道理で、
「鬱の時代」というより「内省の時代」と言う方が良い
のではないか。
思えば日本の戦後は、戦争によりすべてを失ったことの
反動もあって、ひたすらに「量」の拡大に奔走してきたの
であるが、より多くの量の生産とより多くの量の消費に
われわれはたしかに疲れはじめている。
「量」の拡大と所有が必ずしも「幸福」と「満足」につ
ながらないことに気がつきはじめている。
ならば、あらゆる領域において「量」から「質」 への転
換をはかったらどうであろうか
「質」の向上への努力は「量」の拡大のように数字には
っきりと表わせるものでないから、なかなか社会や集団の
目標として設定されにくく、あくまでも個々人の内面に
向けての主体的な認識と体験に侯つ以外にない。
「量」の拡大への奔走により、「質」はこれまで都合のよ
い「宣伝」の道具としてばかり悪用されてきた。それが
昨今の偽りの表示、「偽装」 の原因なのである。「質」の
ほんとうの復権、「量」から「質」 への思い切った転換こそ、
しかし、これからの時代のほんとうの課題とならなければ
なるまい。だが「質」のほんとうの認識は、くりかえして
云えば、あくまでモノを使用する側の主体的な関わりと
誤りない経験に拠る以外にないから、それは尽きるところ、
個々人の個々人としての「自覚」の深化に侯つ他はない。
「量」 の競争から「質」 の認識への転換は、インスタン
ト・コーヒーの宣伝に「違いのわかる男」などという「ま
やかし」が使われる、「巧妙な偽善」に惑わされず、まさ
にほんとうの「違い」を見抜く目と心を養うことによって
計られる以外にないのである。
いましこの国の社会は、いたる所で「深さ」を失い、魂
の軽薄化がとめどなく進行している。
もうほんとうにそろそろ、急ぐことをやめ、できるだ
けゆっくりと、できるだけじっくりと静かに歩むことを始
めなければならない。
地球の資源の限界もあって、このままの「量」の拡大は
たぶん人類の歴史の終焉につながるだろう。ならば「先進
国」としての日本の未来は、他国に先駆けて、「量」から「質」
へ、「官有」から「質素」へと転換することにかかっていよう。


月刊なごや2008 2月号より

神岡ニュ−ス原稿
  Date: 2007-12-18 (Tue)

「歩く 訪ねる お参りする 出逢う」
《円空さんありがとう。
【NHKHiビジョン ニッポン心の仏像 百選】記念
正宗寺住職 原田道一 〈佛心道一〉

●飛騨三十三観音霊場

静かに飛騨を訪れる巡礼者
壮大な北アルプスを背に 歴史 文化の薫り漂う
飛騨三十三観音霊場
一巡250キロの道のりは、温雅なるお寺
そして 四季の花々と石佛たち
山門や参道を通り抜け
目指すは本堂
在します 坐します 観音さま
「念彼観音力」と唱えれば
あなたの心を受け止める
いろんな観音さまに見守られ
心豊かに養える霊場
飛騨三十三観音霊場
(飛騨の観音さまとの会遇より)

飛騨野三十三観音霊場を訪ねて、日本全国からお参りくださる仏達。
白装束で四国巡礼のような装いでの団体バス参拝から、自転車、徒歩にての参拝まで、静かに飛騨のお寺参りが続いている。この背景には飛騨観音霊場会が発足して十五年目(2005年)事務局が制作した「飛騨三十三観音霊場めぐり」(案内本 問い合わせ高山市江名子町清伝寺0577−33−0839)が大変役立つているようだ。
平成19年11月3日 丹生川の千光寺開帳に併せて霊場会の秋の法要を厳修した。今回の特別講演の講師田口幸子氏が、日本各地の巡礼をしている経験から飛騨のお寺のこれからについても、日本人として参考になるご意見を戴いている。東京に帰ると田口幸子氏は、巡礼の先達会(リーダー養成)千葉県銚子市 満願寺住職 平幡良雄師に飛騨の霊
場についての報告をして下さり、今後の満願寺とのネットワーク協力をお願いした。
高齢者に大好評のラジオ深夜便という番組で、再録された平幡良雄師の「わたしの巡礼日記から」こころの時代D号珠玉集(NHKサービスセンター発行)を拝読した。

〈巡礼の会の発願〉高校の教師だった平幡さんは住職寺の檀家の一軒、蒲鉾屋さんの娘サンガ亡くして、悲しんでおられる奥さんに声を掛け、近くの坂東の霊場まいりにお誘いされたそうです。巡礼を重ねているうちに「うちの娘はもうあの世ヘいって成仏できたから。今度は一緒緒に歩いている人たちの仏さんを供養してやるのが、接待の報謝だろう」と考えて、長いこと巡礼のお世話をしてくれました。

@あの世行く時のパスポートとして、必ず礼所で納経朱印をもらいます。先達に従っ
ての心願成就の旅を勧めておられます。

Aこの会は、全員、手甲脚絆白装束、輪袈裟と金剛杖は統一したものをつけての御参
りで、最初は抵抗があるようですね。女の人の一人歩きの場合も、遍路姿は防犯上
よろしいようです。


● 和尚 盡地・盡界を歩く

還暦に円相(禅の境地を円で表現する墨画)を書き始めた原田道一和尚は、七十才から緩歩をはじめた。(坐禅は少し)毎朝食後は緩歩する生活習慣になっている。
お寺を出て、東側旧平湯街道通って小船橋を渡り、小八賀川にそって向かいの坊方の下の田んぼ道を歩く。(右廻りコース)今井橋を渡り、白山神社の前を通り、お寺に帰る。約30分から時に1時間である。わたしの歩行は遊行であり、天地と一つの世界を楽しむのである。四季の様々草花と絶景を楽しみ、山川草木が招待くださる歩行である。時には田畑の耕作の知人とお話をしたり、通学の子供たちと挨拶を交わす。たまには農作物をいただいたり、近家にお邪魔してお茶をよばれることすらある。私にとって自在な時である雨の日が降ったり、小雪が舞ったり、外套を適度に装えば、楽な恰好の和尚である。

この夏、「カミを詠んだ小林一茶」希望としてのアニミズム(地湧社)の書評を頼まれて書いたが、屋久島に永住を決めた詩人、山尾三省の最後の著述だけあって、読みごたえのある著書であった。
彼は、その中で、
「すべての宗教は、このようにカミ経験の上に立脚しなければならない。いわゆるアニミズムのカミを未開野蛮なカミとして斥けてきたのは大変な誤りであった。われわれは、コのカミの土台の植えに、宗教を、いや世界そのものを再構築しなければならない。そこから腕をのばして、自分自身が一本の鉛筆となって世界を描く。宇宙を描くのである。「画餅王国」である。《 生死去来 ことごとく画図なり (正法眼蔵画餅》」

小林一茶の詠う俳句を通して、俳句はカミを表現する手段だという。カミは宇宙のことであり、宇宙、いのちの表現を五七五で詠う。
私の遊歩は緩歩である。ゆっくり歩く。山尾氏のカミを宇宙を体で、呼吸で詠むのである。
そんな日々の中で、数年前、梅原猛先生と、円空学会理事 長谷川公茂氏が正宗寺を訪問されている。千光寺の帰り路、突然の訪問であった。家内が、本堂にご案内し、お寺の円空さん薬師如来を拝見された。その時 梅原先生は即興で色紙に一句書かれている。

子ども等と 遊ぶ薬師は 傷だらけ 梅原猛

このとき長谷川氏の案内で 梅原先生は、最後の大作「歓喜する円空」の著述に取りかかられていたのでしょう。飛騨小八賀川の川に、子供らと遊んだ薬師様は、この世に来られた如来使であるとしか和尚には思えない。
平成18年暮れ「歓喜する円空」(新潮社)と題する書籍を、梅原先生からお送り下さり、一気に拝読した。以下著書の要約を試みた。是非元書を読んでいただきたい。

〔円空の旅の始まり〕
寛文五年(1665)の旅は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出かけた元禄二年(1689)を24年さかのぼる。芭蕉は「奥の細道」で奥州の旅のつらさを嘆いている。しかし、円空は、そこから遥か北の下北に行き、そこから化外の民であったアイヌ人の住む蝦夷地に足を延ばし、北海道から津軽へ帰り、そして奥州を横断し松島まで行った。
円空は、この旅に何の嘆きも漏らしていない。このような旅に出かけたのは、親友で
あり恩人である神職の安高の死のショックからであろう。梅原説では、津軽で始められた円空の十一面観音立像が、この旅の中で完成した。泰澄作の白山信仰の主神、十一面観音像を見て、このような佛像を作りたいとの念願をしていたのであろう。
貞亨二年(1685)千光寺に滞在し、住職俊乗と意気投合し、両面宿儺など多くの像や和歌を残した。その後、一度美濃に帰ったものの、永遠の放浪者というべき円空は、ここに落ち着かず、元禄3年(1690)には、奥飛騨の旅に出た。
奥飛騨は昔の日本がそのまま残っているような処だ。円空は、飛騨の国だけで一万体、全国では十万体の佛像を作ったという。

【円空の歌 六十歳頃の作】
老いぬれば 残れる春の花なるか
世に荘厳(けだかき) 遊ぶ文章(たまずさ)
梅原先生は、円空の歌を。慈悲の心で人間の闇を詠った歌だという。
「私は八十歳を越えた。そのような老人にも春があるのである。私はまだ花を咲かせたい
学問の花、芸術の花を咲かせたい。遊びのない学問や芸術はつまらない。作者が無心になって遊んでいるような学問や芸術でなくて、どうして人を喜ばせることが出来ようか
円空の仏像製作は地球の異変を鎮め、人間ばかりかすべての衆生を救うためであった。菩薩は人を救うことを遊びとしている。私もこの歳になってようやく菩薩の遊び、円空の遊びが分かって来た。」

NHK佛像百選に正宗寺円空作 薬師如来 71番選ばれる


● NHKテレビの取材の顛末記 平成17年夏
第1回 正宗寺 円空 薬師如来取材 放送
迷宮美術館 総合テレビ、BShi放送、
取材 舞木広美
図書 河出書房 迷宮美術館弟三集(アートエンターテイメント)
本体933円 2007年3月10日発行
第2回 正宗寺 円空 薬師如来取材 放送 平成18年秋
NHK 美の壷 ナビゲーター 谷 啓
取材 NHKエドケーショナル「美の壷」制作斑
図書 NHK出版 NHK 美の壷 円空と木食20079月発行
本体950円 2007年9月25日発行

今回平成19年10月12日
「NHKにっぽん 心の仏像 百選」の取材

プロテューサーの心意気
9月末のある日、山登りの服装でタクシーにて正宗寺を訪れたプロデューサー阿部櫻子は、極めて事務的に用件を述べた。是非、円空さんの薬師如来に遇せせていただきたいと申し込んだ。本堂にご案内し、薬師様を抱っこされた。客間にて、今回の主旨を簡単に説明を受けた。
その時、私は、前回、前々回のNHKの取材の経験から、簡単に意見を述べた。主旨は心を通わせての取材をしていただきたいという和尚の心情を吐露した。丁寧にお断りしたつもりで、参考までに、近所の飛騨を代表する文化人の農家に案内した。飛騨の農家として誇る暮らぶりの大谷信応氏の住宅である。稲刈りで留守であったが戸が開いて、中を阿部さんに覗いていただいた。彼女は、大変興味深く、出来たら取材に協力をお願いしたいと伝言して東京に帰った。
とても感じのよいプロデューサーで、山岳番組などのプロデューサーなどの担当者らしい。
しばらくして阿部さんから電話があり、取材の申込である。私の方は、まあ、自分の心情は述べているので、和尚のペースでよければと、楽に引き受けた。
その時、同伴するのが緒川たまき、私は不知の方である。日曜美術館に出ている教養人だという。

取材当日、10月12日午前、9時 来寺
打ち合わせなし。これがよかった。いつもの取材は、色々注文がついて時間がかかる。流石、名プロデューサー阿部櫻子は、黙って見ているだけ。
本堂で緒川たまきが、本尊に和尚と共に五体投地の礼拝して開山堂に向かった。この場面のカットは、ただ一つ残念である。
後は、本堂で円空さんの薬師如来をしっかりと彼女に抱いてもらい、白山神社の旧平湯街道から屋号「辻」大谷家に向かった。囲炉裏のある大谷家の玄関では、主人と田口登志雄氏が出迎えていただく。放送の通り、アッと言う間に終わった。(座談会はカット)
終わったのが、11時
お寺に戻り、記念撮影と揮毫(サインではなく)墨をすって用意。彼女は渾身の筆さばきで揮毫した。豪快な場面であった。松本幸四郎の芝居にも取材直後出演、演技の力量を垣間見た感じである。
本放送 十月十一日 夜七時より九時 〈BSハイビジョン〉
〈本放送〉原田和尚は、百選に選ばれていることを当日のテレビ放送を見て知った。
NHK出版は、2月「にほんの佛像 百選」を出版予定。
ハイビション放送が、皮切りで総合テレビ、BSと何度も放映したが、放送を見て初めて本当に「にっぽん 心の仏像 百選」の71番に選ばれていることに驚いた。まさかが、ようやく事実であった。正宗寺の放送の終了直後、長崎佐世保の水町老師から電話。昨日は東京から懐かしいお手紙をいただいた。昔お世話になった紀野一義先生の真如会の幹事さんからのお便り、そして、日展の橋本堅太郎氏の作品[宮沢賢治の肖像彫刻」の写真が三枚同封されていた。
放送の冥利に感謝する。 NHK出版は、2月「にほんの佛像 百選」を出版予定。


前略失礼します 近年いかがお過ごしかと思っていました等、一昨日
夜、否、その日の翌日となりましょう NHKテレビの仏像の時間、何
と、見るともなく見ていたら、何と「正宗寺」の名が出たのでアレ、と
ころが原田老師さまのお出まし、アアやっぱりそうだ、しばらく久しぶ
にお元気な御様子、いつも変わらぬお姿であることに安堵しました
次に、昨年花巻農業高校に建立サレタ宮沢賢治の像の写真をお送りい
たしました。場所は在来の東北本線の花巻空港駅から2キロほどの森林
公園風のところ。製作は日展の理事長 芸術員会員である神田寺頃から
の青年会の会員出もあった橋本堅太郎氏。向寒お大事に
平成19年12月7日 原田道一様 淵沢良知

taguch sachiko
  Date: 2007-09-06 (Thu)

指圧のおばさん
 親友の田口幸子さんが、東京から遊びに来ました。
 田口さんとは、1992年、裏磐梯のクロスカントリー・スキー大会で知り合い、その後、北海道湧別100kmスキーマラソン大会、サロマ湖100kmマラソン大会などでご一緒し、以来、仲良くさせてもらってます。
 田口さんは、いま、指圧師をしているので、早速、治療してもらいました。いや、たいして肩や腰がこっているというわけじゃないんですが、どれくらいできるのか、試してみようと思ってね。
 ところがどうして、えらく気持ちいいじゃありませんか。
 25分の簡単コースで、スッキリ、ハッキリ、モッコリになってしまいました。
「やるじゃん、まるで本物みたい」と言ったら、ひっぱたかれました。
 聞いたら、ちゃんと、「指圧師国家試験」に合格しているんです。
 57歳で日本指圧専門学校に入学し、98年3月同校卒業。国家試験に合格し、現在は、指圧でボランティア活動をしているというわけ。
 親友だから、もちろん、父ちゃんから指圧料なんか受けとりゃしません。でも、田口さんは年金暮らし。品物なら受け取ってくれます。そこでお礼に、自家製梅干しを一瓶渡しました。梅干しで元気になるなら、ちょくちょく来てほしいところですが、そうは問屋が卸さない。この指圧師おばさん、やたらめっぽう忙しい。
世界のtaguchi
「長崎から帰ったらモンゴルへ行って、モンゴルから帰ったらシンガポール、イスラエルにも行かなきゃならないし、それからブルガリアもあるし…」と、八面六臂。
 実は田口さん、指圧師を目指す前は、国際人として世界中を駆け回っていたんです。   ちなみに、田口さんのプロフィールを紹介すると。
 東京銀座生まれ。法政大学大学院国際政治研究課程修了。米国ハーバード大学留学。イスラエル、スウェーデン、西ドイツに留学。国際協力事業団青年海外協力隊啓発課長、国連開発計画(UNDP)ニューヨーク本部専門委員、同スーダン事務所副代表、民社党国際局長。そのほか、選挙国際監視団(フィリピン、カンボジア、ネパール、モンゴル)など国際活動多し。
 中東、特にイスラエルに関する著書、論文、開発援助,ODA(政府開発援助)関連著書、論文、訳書多数。
 でも、これはほんの名刺代わり。 
遊び人タグチ
 実は、このおばさん、とんだ遊び人だったのだ。
 どんな遊びをしたかって?
 ●登山。
 日本山岳会に所属していてヒマラヤ、中南米の山、ヨーロッパの山を多数登頂。日本ウルトラ山岳ランニングクラブにも所属。
 ●自転車。
 89年、オーストラリアの1200kmレース完走(6日間)。
 ●クロスカントリー・スキー。
 フィンランド75kmレース、スウエーデン85kmのほか、オーストリア、イタリア、フランス、スイス、ノルウエーなど、ヨーロッパのメインレースを完走。国内レースでも北海道湧別80kmに9回完走、札幌スキーマラソン、本州の大会でも優勝、入賞多し。
 ●マラソン。
 パリ、ストックホルム、ヘルシンキ、アトランタ、ローマ、ロンドン、ホノルル、シンガポール、セネガル、カトマンズ、バングラデシュ、北京、リマ、リオデジャネイロ、バンクーバー、etc.
 ●ウルトラ・マラソン。
 サロマ湖100kmマラソン9回完走。山口250kmレース、和歌山120kmレース、そして93年、モロッコのサハラ砂漠マラソン200km完走(7日間)。
 ●街道歩き。
 京都から東京までの旧東海道を6日間で走歩。ほかに、東京から京都、静岡から直江津、名古屋から金澤、東京から日光など超長距離走歩に挑戦。四国遍路、熊野古道などの旧街道も走歩。今年4月には、中山道(日本橋〜京都)を高齢のおばあさんたち(最高80歳)を連れ3年半かけて完歩したばかり。
 どうです。驚くでしょ。 
 3日間滞在し、露天風呂に入って、嵐のように飲んで語って帰りましたが、このおばさんにはいつも圧倒させられます。いや、命の泉が湧いてきましたぜ。
田舎暮らしコンサルタント
 7月7日(土)テレ朝『人生の楽園』、8日(日)日テレ『遠くへ行きたい』放映の余波で、てんてこ舞いしています。ホームページが紹介されたこともあって、来るは来るは、メールの山。3日間で100通を越えました。そのうちの1割は古い友人からで、これはなつかしい。
1割は見知らぬ人からのエール。これも単純にありがたい。ところが、あとの8割は相談メール。田舎暮らしへの悩み相談と、なぜか人生相談も。
 相談なので返事を書かねばならず、夜中までパソコンと格闘です。
 まさか、ここまで反響があるとは。それだけ、都会は住みづらくなってきているのかなあ。


http://www5.cncm.ne.jp/~kazue-kaneko/vol11.html


楽しみにしています。めいさん
  Date: 2007-09-04 (Tue)

楽しみにしています。

本文こんにちは。

michanさんのHP見せていただきました。
すごいです。
手の込んだ作り方をされててびっくりしました。
michanさんが作られたんですよね?

それにそれに私のメッセージまでありました!!
見つけてびっくりしてドキドキしました。
ありがとうございます。m(__)m
本当に本当にうれしいです。
だけど、ごめんなさい。
あのメッセージはお孫さんって書いてますよね。
あ〜、穴があったら入りたいです。
お願いです。
お嬢さんに訂正してください。
よろしくお願いします。絶対ですよ!!

michanさん、日記にもいろいろ書いてくださいね。
楽しみに待っています。

めいさんからの大切なメッセージ
  Date: 2007-08-30 (Thu)

こんばんは。





今日は日記を書いていたので、少し遅くなってしまいました。


ご丁寧にメッセージをありがとうございました。





お孫さん、幸せそうですね。


本当に一番輝いて、素敵な時です。


大切にしてくださいね。





優しいおじい様を持ったお孫さん、とても幸せです。


きっとこれからもずっと幸せです。


それを心より祈っています。

http://sns.webry.info/at/20402660/home.do


ナタリーさんの著書
  Date: 2007-08-19 (Sun)

原田道一様

「精心道」に掲載の紀行文をお読みいただき有難うございます。

NLPコーチング、精神療法、野口整体、などなど様式は違っていても
その中心には「生あるもの全てを想うこころ」があってほしいと強く
願いながら、共に学びあうワークショップを重ねてまいりました。

ナタリー・ゴールドバーグの著作を読むたびに、
よき師にめぐりあうことの幸運を思わずにいられません。

いろいろなつながりがあることはほんとうに有難いものです。
ご感想をお寄せいただいたことに改めて感謝申しあげます。

下尾崎 勉




> はじめました。とうとう、日本の中に片桐老師を訪ねる方がおられることに、
大変感動
> しています。
> 泰蔵院住職の片桐老師の書いてくださった、南無釈迦ムニ佛の入ったネブラス
カでの記
> 念接心のサイン帳を大切に私は保存しています。 ナタリーさんのことは片桐
老師のと
> ころでお話を聞きました。精心道とのつながりも大変興味を持っています。早



Luck隠居News2007年7月号
  Date: 2007-08-17 (Fri)

Luck隠居News2007年7月号 田口幸子


梅雨明け宣言がないまま(7月29日)、暑さは、もう夏。蝉も鳴いています。わが家の相棒犬はな子がいなくなり、それでも、いつものように、一日、一日が過ぎています。朝晩の散歩がなくなったので、せめて、その時間には、写経でも、と書きためた「般若心経」。せっかくなので、お寺に納めようか、と巡礼に行くことにしました。

四十九日(しじゅうくんち)が7月19日なので、この日に秩父の札所をまわってきました。供養になったかな、と思っています。




江戸のお富士さんの山開き

6月30日(土)晴れ

前月号の続きです。 たしか十条駅近くの食堂で、超安い、でも超でっかいトンカツ定食の昼食をした、というところで、終わっていました。この後、田端へ。JR田端駅から4,5分のところにある田端富士=田端八幡神社へ行った。本日最後の富士登山。でもハイライトは、神社鳥居前の赤札仁王さん。隣接の東覚寺(ご府内八十八札所のひとつ)のお不動さんだ。寺で買ってきた(200円)お線香、それに赤紙を、仁王さん(2体ある)のからだに貼り付けるのだ。自分のからだの悪いところに貼るとご利益があるということで、仁王像には、貼られた赤い紙で、本体がみえないほど、べたべた貼られている。浅草寺で煙りをからだにかけるのと同じこと。これで治ると信じてやれば、治るんでしょう。といいながら、来るたびにやっている。本日は、ここまでの挨拶があり、歩き足りないので、もう少し歩くつもりで、駅とは反対方向に歩きはじめると、M先生が、後ろからついてくる。東京駅へ行くので、そこら辺までご一緒に、と。ここら辺は、お互いによく知ったエリアだ。しばらく行くと駒込病院。ちょっとよっていこうよ、と坂を上がった右の駒込神社へ。なるほど、ここには立派な富士塚(駒込富士)があったっけ。十条ほどではないけれど、広い境内には、屋台がいくつもたっていた。富士講の受付には、お揃いの浴衣姿の役員のみなさんが座っておられた。M先生、しばらく雑談。富士山のかたちのらくがん(500円)を売っており、買った。結構人出もあり、登山口には、子どもたちが並んでいた。お山の頂上から、昔は、江戸が一望できた、と役員さんが言ってたが、今は、 ビルで囲まれていて、なんにもみえない。下山すると、雨がぽちぽち落ちてきたので、先生と別れて、ビルの入り口で雨宿り。と、上野松坂屋行き、のバスが通ったので、そうか、この道を行くと上野か、と歩くことにした。雨もそうひどく降らず、動坂から根岸方向に出た。途中から、道がわかり、不忍池に出た。これから、夏越しの祓いの行事がある神田明神、湯島神社へ行くつもりだったが、またまた雨が落ちてきたので、あきらめ、帰宅。明日も、富士登山の日程があるので、ここまでにしておこう。




天気予報では、山梨は雨、とあったが、理科の先生が、「大丈夫、予定通り行く」というので、山梨へ。本日は、M先生の車に乗せてもらうことになっていて、待ち合わせは、JR目白駅。今にも雨が落ちてきそうな気配だったので、降ってきたら雨宿り、のつもりで、駅前交番わきに立っていた。駅向こう側は、学習院、それにこのあたりは、有名私立学校が多い。駅前に次々に着くバスからは、通学、通勤客がどっと降りてくる。まだ7時前だというのに、通学の子どもたちが多いのに驚く。近くからも、母親が付き添って、駅まで通学の子ども送ってくるし、通勤姿のお父さんが、ランドセルの子どもと手をつないで、改札口に入っていく。この時間に、ここに着くには、6時前に自宅を出ている、その前に起きて、朝ごはんをすませなければならず、この頃の子どもたちは、たいへんなんだ。学校がすんでも、塾へ行ったり、習い事をしたり、しているんだろうに。(この話を元センセイのM先生にしたら、「子どもたちの学校でも困っている。生徒たちが早くに来すぎで、といって門を開けるわけにいかず困っている」んだそうです。ラッシュに合わせないために親は、子どもを早くに通学させている、とのこと)自転車でお散歩の男性が、交番前に自転車をとめて、「すまないね、空気入れ貸してよ」、と立ち番のおまわりさんに。中から持ってきた空気入れを男性に渡したおまわりさんの手に、「マリ、おとなしくしてろよ」、と犬の綱を渡した。中型の犬(よく見かけるタイプ)は、交番の中に入った。おすわりなんかして、なかなか躾がよろしいようで。おまわりさんが、「よしよし」と頭をなでると、さっと尻をもちあげ、やったあ、おしっこ。交番の中でおしっこ。でかした、でかした、と見物していて叫んだ。と、中にいたもうひとりの先輩(年齢)警察官が、「ま、いいんじゃない。大でなくてよかったな」、と一言。これぞ、みなさまの交番、人々のための警察官です。朝からいいものを見せてもらった。9時半に山梨の畑に到着。高速料金の早朝割引で来た早組のSさん一行は、もう一仕事も二仕事もやったよ、と。さっそく野良仕事用の地下足袋にはきかえ、ぶどうの傘かけにとりかかった。前週にきたSさんたちから、このままだと傘かけをやらねばならない時機までに終わらない、との報告を受け、本日の作業となったのだ。月曜日だというのに、8名の猫の手が参集。現役勤め人のTさん(会社はずる休み)以外はご隠居さん白いビニールを傘のようにぶどうの実に上から被せて、ホッチキスでパチン、という作業で、午後3時までに1400枚達成。昼は、昨晩手づくりの焼きおにぎりを食べた。予定のぶどう全てに傘をかけ終わり、ぶどう園の主のお父さん、お母さんも加わり、全員で万歳を三唱したのでした。 この後、ぶどうの里の温泉(600円)にはいり、機嫌よく帰宅。6月30日、7月1日の江戸の富士塚探索に続き、ほぼ同じ顔ぶれで、3日めは山梨で、というメンバーでした、お疲れさま。雨降らず。

お中元、ありがとうございました

7月3日(火)曇り

本日は、浦和へ。帰りに北千住の本屋へ、注文してあった本をとりに。「日本奥地紀行」イギリス人女性イザベラ・バード。1878年に船で横浜に着き、東北や北海道を旅した。彼女43歳の紀行文だ。前にいちど買ったのに、自分が読まないうちに、借りたいという人がいて、貸したら、そのまま。で、再度の購入。家に帰ったら、宅急便がきていた。ビール、佃煮、魚の粕漬け、チーズ、カステラなどで、どれもありがたい。はな子ちゃんとどうぞ、とハム、ソーセージも。でも、もう、ここにはいないのです。

裏切り者吉野家

7月4日(水)曇り 小雨

綾瀬まで歩いて行った(4キロ)。駅ガード下の吉野家で、昼をたべよう、ときめていた。牛がおいしくなかったので、豚丼、生たまごを注文(410円)。味は、まあまあだ。勘定を払っていたら、一枚の紙が目に入った。曰く「これで、夏をのりきろう、ご期待にこたえて、うな丼をはじめます」、とあった。えっ、なんで牛丼の吉野家が、うな丼はじめるの? 決めた、これで当分、この足は、吉野家に入ることはない。どんぶりは、吉野家だけじゃあないんだ。午後は、九段で源氏物語の勉強会。柏木が、源氏にいびられて病の床につき、遂に死んでしまうという筋書きだ。色男でならした光源氏も、晩年は、いやなお年寄りになったもんだ、と。

大阪から、にら、わけぎ の宅急便

7月6日(金)曇り 時々晴れ

夕べちょと雨が降ったので、畑仕事。西国巡礼の旅でご一緒の大阪のIさんが、にら、わけぎの苗を宅急便してくれたのを、植えた。植え方、栽培のしかたの説明書つきだったので、助かった。この時期は、とにかく、雑草が超元気で、草取りをしても、すぐに別のが生えてくる。1時間ほどかけて、苗床をつくり、説明書通りに植えた。多年野菜なので、毎年たべられるので楽しみだ。午後は、神田神保町へ。こわれていたストックを修理。ついでに、お店のおすすめのすぐれものTシャッツとやらを買ってしまった。それで、手持ちが500円しかなく、本日は、古本屋のない道を選んで、御茶ノ水駅へ。年金暮らしなんだから、こういう衝動買いはやめましょう、自戒。

七夕、星見えず

7月7日(土)曇り 

午前中は、Tさんが、故はな子の仏壇にお参りにきてくれた。いつものように、大好物だったチーズを持って。喪主には、えびシュウマイを。午後、浅草田原町で、寺主催の行事(先達塾)があり、それに出席。巡礼、遍路に人を連れて行くときの心得などの勉強。雨が降っていなかったので、浅草まわりで、久しぶりで歩いて帰った。

ほおずき市

7月9日(月)曇り 時々晴れ

ご詠歌の練習の後、浅草は、浅草寺へ。本日は「ほうずき市」。ポスターに『四万六千日』とあり、かねてから気になっていたので、浅草寺本堂前の受付へ行き、四万六千日って、どういう意味ですか、と訊ねた。7月10日に浅草寺にお参りすると、四万六千日分のご利益があるんだそうです。格好も、威勢もいいお兄いさん、やおねえさんが、「縁起もんだ、買った、買った!」とあっちでも、こっちでも叫んでいたが、ほおずきの鉢は、買わずに、しかし、お賽銭は、いつもよりはずんで、50円玉にして、手をあわせた。仲見世通りは、人ごみで、歩けないので、裏道をえらんで歩いた。今日は、浅草から上野まで、よそ見をしながら、歩いた。

参議院選挙

7月12日(木)曇り 雨

ようやく梅雨らしい、じめじめした一日だった。朝、吊っていた紐がきれて、固定してあった台の上に置いてあった筆記具(万年筆、鉛筆、ボールペン、マーカー、筆、カッター、はさみなど)が、バタバタッと床に散乱。それぞれ種類別にわけておいてあったのが、全部いっしょくたになってしまい、それらを集めて、整理するのに2時間もかかって、しまった。でも、基本的に、こうゆうのが好きなのです。文房具をいじっていることが大好きなので、ちっとも苦にならない。文房具と遊んでいるって感じ。結局、朝食も忘れていて、11時すぎにブランチしました。つけっぱなしのラジオでは、パキスタンの神学校事件、今日からはじまった参議院議員選挙の各党第一声とかが、繰り返し放送されていた。投票に行こうか、行くまいか。午後から、久々に中央図書館へ。ドナルド・キーンの奥の細道を読んでみたかったので、でかけた。「細道」が、narrow road とあり、なんだか、路地みたいな感じで、英訳って情緒がないな、と実感。やはり、日本語は、美しい。ついでに「江戸の富士講」関連の書籍をさがしてもらった。いい本がありましたよ。ハードカバーの学術書「富士講の歴史」岩科小一郎著、名著出版。借りてきた。

超大型台風がきた

7月13日(金)曇り、小雨  まだ梅雨があけないというのに、台風発生。やっぱりこれも地球温暖化現象なのだろうか。日本だけでなく、世界のあちこちで異常気象らしい。科学もITも、お役にたたないようで、こうなったら、やはり、私たちの祖先がそうしたように、神頼みしかないのでは。というわけで、午後は、図書館で、「富士講」の続きを勉強。

外モンゴルって、どこのこと?

7月14日(土)雨 台風は、いよいよ九州に上陸。風速60mというから、超大物だ。早朝、小雨の中、いただいた朝顔の苗を植えた。桜と椿の木の幹にはわせるつもり。午後は、モンゴルツアーをくんだ 知人の事務所へ。この夏、1週間の日程でモンゴルを初訪問という人たちに、モンゴル事情の説明をした。共産中国にとられた内モンゴルへは行ったことがあるという方から、「外モンゴルは、はじめてだが」といろいろ質問があったが、モンゴル本国のことを、外モンゴルというのを、はじめて体験。モンゴルの人たちが、外モンゴルというのを聞いたら、なんというか。

えっ地震!

7月15日(月)曇り 時々晴れ  洗濯をしたので、乾くまで在宅、とパソコンをいじっていたら、画面が突然グラグラっとした。天井から吊るした蝿とり紙の筒が揺れている。立ち上がると、目まいのようにくらくらする。かけっぱなしのラジオが、「地震です、ただいま地震です」、と。10時15分だった。すぐにテレビをつけたが、新潟の柏崎あたりが震源とでて、現地報告では、それほどの被害ではなさそう、といっていた。でも、こんなに離れている東京であれだけの揺れだったのだ、そんなはずはなかろうと、写経をしながらつけっぱなしのテレビを横目で見ていたら、時間が経つにつれ、次々に被害が報告されはじめた。遠くに写っている柏崎原発のあたりで、煙がみえたが、アナウンサーの説明がない(NHK)。民放にまわしてみたら、「原発から煙が見えます、あっ炎のような火も見えます」、と興奮気に現地報告をしており、こりゃあ大変だ、えらいことになった、となんと夕方4時まで、テレビの前に釘づけに。理科教室のM先生が、日本の原発は、なぜか地震帯の上に建設されていて、いまにたいへんなことになる、と話されていたのを思い出した。昨年4月、奥の細道の旅で、あのあたりを歩いたので、地名が出てくるとその場所が思い出される。被害のひどかった出雲崎、あそこは、良寛さんの生まれたところで、芭蕉の銅像や、史跡もあった。海に近い漁師町の北国街道を歩いた。柏崎では、この頃、日本の地方でよくみる風景、旧商店街がさびれていた。大崩落のあったJR青海駅、海面と同じレベルの駅で、駅から旧街道のジグザグ道を登っていった。地震で、旅でのいろんなことを思い出していた。

はな子の四九日で、秩父巡礼に

7月18、19、20日 二泊三日。

6月1日に亡くなったので、7月19日が四九日(シジュウクンチ)。思いたって秩父三四札所めぐりに行くことにした。ご開帳の来年にいくつもりでいたが、毎日書いた写経もたまったことだし、ちょいと行ってくるか、と。四国は88ケ所、西国は33ケ所、坂東も33ケ所だが、秩父は34ケ所だ。33だと、結願しても100にならないので、1ケ所増やして34にしたという。秩父は、東京から近いので、その気になればいつでも行ける、と後まわしになっていたのだが、はな子のおかげで、その気になったのだ。7月18日(水)曇り 7時半の西武線レッドアロー号(740円)で西武秩父駅へ。駅前からバスで1番札所四萬部(シマブ)寺へ。巡礼用品の売店で地図を買った。寺のほとんどが、秩父の市街地にあるので、巡礼路は、心配ないので事前の調べはしてこなかった。2番札所真福寺は、桑畑の中の登り道を約30分行った山の上にあった。住職のいない寺。ここを下り、しばらく行ったところの橋で、ひとりのおじいさんに会った。足が不自由らしく、杖をついていた。「手づくりの杖、なかなかですね」、というと「そこで待っていて。今、すぐくるから」、と橋のたもとの家に戻り、しばらく待っていると同じような杖を持ってきた。これも俺が作ったんだ、札所はまだ始まったばかりだから、この杖を使ってくれ、と言う。竹にニスを塗った杖で、節のあたりには、やすりがかけてあり、なかなかの杖。竹製金剛杖のおもいがけないお接待に感謝。最後のお参りまで使います、とお礼をいって分かれた。次は、3番が順打ちの寺だが、4番の金昌寺がすぐだったので、そちらへ先に行った。山門の左右に大きなわらじがかけてあり、石仏群が並ぶ境内だ。3番常泉寺は、定峰川にかかるふるさと歩道橋を渡るとすぐ。観音堂正面に竜の彫りものがあった。この後、車の行き来する道を5番語歌堂、10番大慈寺、11番常楽寺、9番明智寺を次々に廻った。6番ぼく雲寺は、樹齢600年のもみじがご自慢の寺で、秋は200円の拝観料が要る。4時半すぎに横瀬駅から西武秩父駅に戻り、駅前旅館の宿泊。

7月19日(木)曇り 本日もかんかん照りでないのが、ありがたい。宿をさがすのがめんどうなので、もう一泊することにして、雨具などは宿においていく。宿の女将さんから、30番からは、札所と札所の間の距離が長いので、定期バスもないし、半日ほどタクシーにしたら、といわれ、そうすることにした。8時にきてくれたタクシーの運転手さんは、札所めぐり専門の方で、非番というので、自分の車で案内してくれることになった。この後、1時すぎまでにあれよ、あれよという感じで、次々に寺をまわり、こちらは、寺の山門で下車し、石段を登り、境内を行き、観音堂でお経をあげ、戻ってくると「では、次の寺へ」、という具合に地図をチェックする間もなく、ただただ寺を次々にまわった。埼玉県の三分の一の面積という秩父はさすがに広く、それでも、四つの足(車)でまわる巡礼は、すさまじく迅速だった。1時すぎにようやく車から降りて、自分の足での巡礼に戻った。29番長泉院、竹やぶの中にあった。次の28番橋立堂は馬頭観音が本尊で、岩山に囲まれた寺で、境内の鍾乳洞は入場料が200円。27番大渕寺は、弘法大師もきたとあった。16番札所円融寺は、お墓の中にお堂があり、西武秩父駅に近い12番野坂寺は本堂が新築したばかりだった。踏み切りを渡り、西武秩父駅と秩父鉄道御花畑駅からすぐの慈眼寺は13番札所で、お参りの人がいた。他の寺では、ほとんど人に会わなかった。巡礼の季節ではないのだ。秩父神社の夏祭りのお囃子の音をききながら、15番少林寺、14番今宮坊、16番西光寺をまわり、17番定林寺で本日は、打ち止め。旅館に戻り、今日一日で廻った寺をひとつづつチェックしてみたら、なんと18番、19番しか残っていないことが判明。えっ、それってほんとう!、と思わず叫んでしまった。車という文明の利器に頼った札所めぐりの凄さ(?)を実感。ともかく明日は、2カ寺をすませよう。

7月20日(月)曇り 旅館から歩いて30分ほどで、国道わきの18番神門寺、さらに15分で19番龍石寺に着いてしまった。というわけで、3日めは、あっけなく終了。10時20分に西武秩父駅に戻り、あまりにも時間が早すぎなので、御花畑駅から秩父鉄道に乗ることにした。寄居か熊谷で乗り換えて帰るつもりだったが、たまたま秩父鉄道特別イベントの日で、(機関車5両で客車5両をひっぱるという)乗車した電車が停車を繰り返していて、なかなか進まず、車内でひろった新聞を読んでいて、降りるつもりの熊谷駅を乗り越してしまった。えーい、面倒だ、終点まで行こう、と秩父鉄道終点の羽生駅へ。それでも1時すぎだった。改札横にザックをおき、駅員には、トイレに行ってきます、といい、そのまま、羽生市内を見学、見物した。なにしろ初めてだったのです、羽生ってところ。途中で、いい匂いがするので、行ってみたら奈良漬屋さん。ガラス越しに覗いていたら、奥さんが出てきたので、奈良でない所でも奈良漬作っているんですね、というと、味わってみて、と一切れくれた。うまい、なかなかいい味だ。で、定価600円のを半額にまけてくれたので、おみやげに。駅に戻り(長いトイレ?)、東武線で北千住に。消化不良って感じの秩父札所めぐりだったが、羽生の奈良漬でなぜか充実気分で帰宅できた。

蝉の初鳴き

7月21日(土)曇り 午前中は、留守中の新聞、郵便の整理。朝顔がふたつ咲いた。つるを桜の木にまきつけた朝顔だ。と、上の方で突然蝉が鳴きはじめた。こんなに近くに人がいるのに、熱心に鳴いている。今年、初めてきいた。午後は、図書館へ。浅間神社社務所編集という「富士の信仰」(昭和48年発行)。足立図書館になくて、請求したら、東京都日比谷図書館から取り寄せてくれた。桃の収穫、山梨へ

7月23日(月)曇り 東京小雨、山梨は晴れ
猫の手のSさん宅(北新宿)から、車で山梨へ。平日なので高速道路もすいていて、笹子トンネルを出ると晴れていた。まっすぐ畑へ。お父さん、お母さんが桃の収穫作業をしていた。さっそく、試食。袋を掛けた時はあんなに小さかったのに、立派な、色つやのいい桃になっていた。プロは、皮ごと食べるそうだが(お母さん曰く)、やっぱり皮をむいてから食べた。うまい! というと、ご同行の猫「当たり前でしょう、私たちが育てたんだから」、と自画自賛。これは甘いよ、とお父さんがもぎたてを持ってきてくれたが、そうそう食べられない。だってみんな大っきいんだもん。しばらくして、遅刻のM先生運転の車が到着。シニアクラブのサッカー試合で、蹴飛ばされて足を怪我したとのこと。それでもやってきた、偉い! 宅急便注文のお願いをして、本日持ち帰る分を箱にいれ、帰ることに。どの桃の実が採れ頃かは、素人ではわからないので、本日は、作業なし。4時頃には神明町に帰着。さっそく、近所に配ってまわった。さも自分がつくったような自慢をしながら。

このままだと、日本はたいへんなことになる

7月24日(火)晴れ 夕方、神田で小泉武夫

先生の話を聴く会。キャリアおんな(現役、隠居)の会主催だ。酒、食などの専門で、テレビなどにもちょくちょく出演されている大学の先生。「食料自給率30%の日本、日本の農業を応援するためにも、もっとmade in Japanを食べよう。牛肉も、鮭もアメリカや、チリ産でなく、少々高くても日本産を買おう。食育は子どもよりも、今の大人にこそ必要だ。子どもたちには、英語教育よりも、日本の民族文化を教えよう、etc.」。そして、日本をだめにした元凶は、アメリカの真似スーパーマーケット。車社会の大量消費型スーパーが、島国日本の伝統文化を破壊した、とおっしゃる。まったくその通りです。いい話でした。

足立の花火大会

7月26日(木)晴れ 夕方夕立 暑い日だった。4時すぎに夕立。花火はだめかと、夕食を食べていたら、約束していたご近所が、雨がやんだので行こう、と。遅れて行ったので、遠くの土手から見物。きれいだったが、暑かった。





sotozen international より
  Date: 2007-07-24 (Tue)

ネブラスカ禅堂開単を通して 正法を伝える大切さ
岐阜県正宗寺住職 原 田 道 一
 日本列島の極寒地の北海道を除いて飛騨のこの地は、内地一番の厳寒地であろう。この寒さが、法を伝え、文化を育てているのだとつくづく思う。

 六十歳の還暦、猪年である拙僧、山寺の朝を土蔵を改築した禅堂で迎えることができた。坐に本当に親しむようになった直接のきっかけは、昭和五十二年秋、故片桐大忍老師を北米ミネソタの地に訪問し、相見したことに始まる。「十五日以前を問わず、十五日以後を問う」ならば、まさしく晩秋のミネソタを訪れた日は、大切な時であり、初発心の日であった。

修行のやり直し

 翌年六月、故片桐老師のご支援により、北米のど真中、ネブラスカ川オマハ市にある小さな禅のグループに招れて、単身でオマハの空港に降り立った。大学教授の家に居候しての参禅指導、英語のできない日本僧が日本語のできない米国の家主に世話になり、五日間の接心を含めて一ヶ月全身全励の体験であった。

 以後、夏冬数回ここを訪れた私は、大変なことに気付いた。素人のくせに、禅の修行もちゃんとしないくせに、だれかに何かを教えてやろうなんてケチなことを考えたばっかりに、息がだんだん続かなくなってきたのである。私は気負いということに気付いた。気負ってやったことは、どんなにいいことの様に見えても、それはその人の、その人らしいものではないということに気付いたのだ。

 というのは、アメリカの人たちが、あまりまじめに修行なさるので、だんだん恐くなってきたのである。そして、とうとうネブラスカ禅センターの開単式をしたその年を期として、以後渡米を中止してしまった。そして、飛騨高山の山寺の土蔵に坐り、京都の毎月一度の内山興正老師の正法眼蔵の講話をはじめ、参師問法の再出発、修行のやり直しを始めた。

 私が一番気を付けなければいけないと思ったことは、修行は見せものではないということ。人の見ていないところで修行するのが基本なのに、私は、修行を人との関わりあいの中でやるという方に中心を持っていた。そして、自分の内面の力が蓄えられていないということに気付いたのである。

正法を伝えることの大切さ

 アメリカで経験したことは、英語ができなくても一緒に坐ることはできる。坐るということはありがたいもので、目と目を合わせれば大体のことはやっていけるということであった。「これならかなりのことまでできる!」と。ところが、とんでもないことも起きるのであった。

 接心中、応量器(略器)を使っての朝食時、私はうっかりオートミール(お粥)を自分の膝の上にこぼしてしまった。急いでそれを指でつまんで食べたのだが、それを見ていた彼らは、各々が順番に自分の膝の上にお粥を落して、つまみ上げて食べたのであった。

 こんなに純真な人たちをだましたらいかんなということを思い知ったのである。おのれの力量の不足と正法を伝えることの大切さを思い知らされたアメリカ体験であった。



ワン・ポウル・ネットワーク通 信第三号が、十月二十五日発刊さ れた。今号はミネソタ訪問特集で、 原田道一師とともに訪米した長崎 県佐世保市青眼寺住職・水町宗典 師の「根張りの風で土となる」と 題した紀行文が掲載されている。

 水町師は、「坐禅、作務、そして 托鉢を通して、日米双方ともに行 じることによって相互に交流し、 お互いに学びあい、共鳴し、共 に生きるということの大切さを 痛感した」とまとめている。

 その他に原田道一師の「ワン・ボ ウル・ネットワークのめざすも の」、サンフランシスコ在住の オラマス・サンドロ師の「茶と 禅」などの寄稿文が掲載さ れている。

 興味ある方は、 事務局(0577-78-1080)へご連絡下さい。

※ワンボウル ・ネットワークとは、一鉢(托鉢 用応量器)を縁とした草の根運 動です。地球禅仏教の原点を釈 迦牟尼世尊が示された托鉢「頭 蛇行」の実践に学び、草の根の 交流を願うものです。

 特に、ミ ネソタ禅センターの道友を精神的 に、物質的に援助しながら、今我々 が、お互いの初心を確かめあい独 坐に円通することを目的とします。


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ミネソタ釣月宝鏡寺建立計画
主任開教師 奥 村 正 博

 一八九三年、日本の仏教ははじめてアメリカ合衆国に紹介された。それからしばらくして、日系移民を主な対象とした開教が、ハワイやカリフォルニアを中心にはじまりました。しかし、日系以外のアメリカ人に対する坐禅修行中心の教化活動がはじめられ、各地に禅センターができはじめたのは、一九六〇年代のことです。まだ、三十年余りの歴史しかありません。

 故片桐大忍老師は、一九六三年に渡米されました。アメリカに坐禅修行を伝えられた先駆者のお一人です。ロスアンゼルス禅宗寺、サンフランシスコ桑港寺、サンフランシスコ禅センター等で開教活動に従事されたあと、一九七二年に小さなグループの願いによって、中西部ミネソタ州のミネアポリスに移られ、ミネソタ禅メディテーションセンター・耕雲山願生寺を創設されました。以来、全米でも代表的な禅センターの一つとして知られるようになりました。

 一九七八年には、ミネソタ州東南部のミシシッピー川の近く、丘陵と谷とが続く大自然の中の美しい地域に、280エーカー(113.4ヘクタール)の土地を購入され、本格的な参禅道場を建せされることを発願されました。そこを釣月山宝鏡寺と名付けました。最初は、陸軍のテントを坐禅堂として使い、夏安居を行ないました。しかし、雨が降るとテントの下から雨が入ってきて、多くの坐蒲が水に使ってしまいました。そこでこのテントを張るためのプラットフォーム(基壇)を造り、それが後に、現在の禅堂の床になりました。坐禅堂はメンバーの大工によって、宝鏡寺境内の樫の木をきり、自分たちで製材して建てました。それ以後、冬期を除いた三季節に使用可能の台所、シャワールーム、東司、方丈キャビン、作業場などを建てて参りました。しかし、まだ宿泊施設がありませんので、参禅者はそれぞれ、自分のテントで寝泊りをしております。

 故片桐老師は、庫院、僧堂及び衆寮が、恒久的な道場建立の第一段階だと考えておられました。 これまで、アメリカ国内からの浄財によって、宝鏡寺境内地購入の支払いを済ませ、最初の建物を建築致しました。老師は、何人かの弟子たちと日本で托鉢をして、建築進行の資金にしようと望んでおられました。しかし、その完成を見ることなく一九九〇年三月、癌のため六十二歳で遷化されました。アメリカの仏教にとって大きな痛手であります。片桐老師御遷化後も、遣弟及び俗弟子の人々によって、願生寺及び宝鏡寺は護持され、私共は三年間毎年、日本各地で托鉢をして、多くの方々から浄財を寄せて戴きました。

 アメリカの仏教が真にアメリカのものとなるためには、この国で指導者を養成できることが不可欠であります。故片桐老師が宝鏡寺僧堂建立を発願されたのも、それが眼目であったと推察致します。叢林での大衆一如の坐禅修行を抜きにしては、道元禅師の仏法が伝えられていくことは不可能かと存じます。また、在家の参禅者の人々にも、恵まれた自然の中で自己に親しむ参禅の場を提供致したく存じます。

 故片桐大忍老師の僧堂建立という生涯の念願をひきつぎ、アメリカ国内において努力して参る所存です。しかし、なにぶん、仏教全体の支持基盤がまだまだ小さく、日本からの援助なしでは不可能なのが現状であります。何卒、趣旨をご理解戴き、釣月山宝鏡寺道場建築進行に御助力の程、お願い申し上げます。





ワンボールネットワーク ミネソタ

 岐阜県・正宗寺住職・原由道一老師より、ワン・ポール・ネットワークを発足し、ミネソタ禅センターを支援していきたいという提案を受けました。SZlはその趣旨に賛同し、応援していきたいと思いますのでここにご紹介いたします。

ワンボール・ネットワークとは?
岐阜県・正宗寺住職 原 由 道 一

 一鉢(托鉢用応量器)を縁とした草の根運動です。 地球禅仏教の原点を釈迦牟尼世尊が示された托鉢「頭陀行」の実践に学び、草の根の交流を願う。特に、ミネソタ禅センターの道友を精神的に、物質的に援助しながら、今我々が、お互いの初心を確かめあい独坐に円通することを目的とします。

 昨年秋、ミネソタ禅センター王管・奥村正博師に京都でお会いして、最近のミネソタの様子を拝聴することができました。私にとっても大切な教えをいただいた故片桐大忍老師のご苦労を存じあげているだけに、何かお役に立つことはないかと思っていました。そこでいろいろな方々に相談申し上げた結果、具体的には一万円の協賛金を戴いた方に、飛騨高山特注の千巻製応量器を郵送し、実費を引いた残りの五〇〇〇円をミネソタ禅センターへの浄財にと考えました。この応量器は楢崎通元老師の指導で作成し、老師には托鉢の禅画と解説を戴きました。

 地方の草の眼運動が今の、変革期に大切であると思っています。このワン・ボール・ネットワークの運動理念は、マリリン・ファガソンの「アクエリアン革命」によるものです。以下引用いたします。心の変革を成し遂げた個人があちこちに生まれ、互いに知りあうことがなくとも目にみえない連帯となって広がり、やがて世界全体を変革していく、新しい規範が登場し若い人たちが、その意味を認めはじめる。そして、その数がある一定の数を越えると、大規模に規範が移りはじめる。新しい見方を受け入れる人々が増え、それが社会のコンセンサスになる。

透明な知性を持った人たちによる呼吸運動

 小さなグループの中に、人々がます、自分自身を変革し、それからお互いに励ましあっていく。決して自分の考えだけに狂信的にしがみつかす、感傷的にならす、他人を高めながら現実からの遊離もせず、規律を守りながら縛ることもせす、その中で、社会が変革に向かって動いていくのだ。

 無力で何人の賛同が得られるか わかりませんが、経済大国日本ら しからぬ小さな浄財で心を通わす 方法を願っています。ご意見、ご 賛同をお願い致します。
事務局 〒506−21
岐阜県大野郡丹生川村正宗寺山内
ワン・ポール・ネットワーク・ミネソタ  代表 原田道一
TEL/FAX 0577-78-1080


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鉢盂(ほう)=法=宝

お釈迦さまの根本精神を貫く 生き方は「托鉢」です。 「拈華微笑」の話で知られる 迦葉尊者を後継ぎにされたのは 頭陀行第一(衣食住が少欲・知 足に徹した方)であられたから です。日本で諸芸道の奥伝を 「衣鉢を継ぐ」というのは、この 佛心を受けているからでしょう。

 永平寺の道元禅師は、「お釈 迦さまから達磨さまへと代々伝 えられた佛心(正法眼蔵涅槃妙 心)が「袈裟・鉢孟である」と 教えておられます。お釈迦さま は、自然と共に生きる目標とし て「蜂が花の蜜だけを探って、 色も香りも損なわないような、

 清らかな生き方をせよ」と自ら 八十年を示されました。お釈迦 さま、道元禅師をこよなくお慕 いになった良寛さまも「かつて 高僧伝を読む、僧は清貧を可と すべし」 を生涯守りぬかれた古 佛でした。

 僧堂では、鉢盂(応量器)を 使う時「三輪空寂」施者・受者・ 施物が清らかなことを念じます。 坐禅のかたちも、こころも自 利利他・平等利益を表します。 出入の呼吸・法界定印の手を 差し出した「お頂戴の形」、合 掌して「いただきます」の言葉 は、日本の美しい風習になって います。
【文 楢崎通元老師】


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国内インフォメーション
北米の托鉢僧をお招きして
「地球に感謝する集い」

 北海道に住むある作家が、自然を考えるシンポジュームの中で「共生とは共に利益を得て共に生きることである。だが人間は自然を必要とするが自然は人間を必要としない。故に共生という関係は成立しない。むしろ人間は自然に寄生している。自然と人間は、対等ではない。「自然にやさしい」というが、それは人間の片思いである。」と発言している。

 アイヌは山菜を探る時、山の神に「衣服の一部である山菜を分けてください」と祈り、必要な量だけ採って、決して採りつくしはしないというのが身についているそうです。

 人々が同じ地球に住んでいながら、争い、殺し、憎しみ、虐待する行為が繰り返されるのは、人々のこころのどこかに相手に対する、おごりや侮りがあるからだと考えます。

 おごりや侮りが思い上がりにつながり相手を蔑んだり、いじめたり、傷つけたりすることになるとみえます。これは周りの生き物に接する人の態度にも同じことが見られます。私達人間は地球に感謝することから始めましょう。謙虚な気持ちで宇宙の苦悩の星、地球からの痛みのメッセージを聴く態度を磨きましょう。

 来年七回忌を迎える、北米の開教師片桐大忍老師によって蒔かれた種が、北米のミネソタに芽を出し、お弟子さん達が四国の瑞応寺僧堂に来て修行されました。永平寺の副貫首である瑞応寺の堂長、楢崎一光老師も、かつてミネソタの山奥のこの貧乏な仮小屋の宝鏡寺に招かれて、禅の指導をされました。楢崎老師は九州の熊本にある大智禅師の御開山の聖護寺を国際道場として開単されました。ここで三年間修行され、ミネソタの宝鏡寺を守っておられるのが、ワインコフ彰顕宗師です。

 昨年九月に長崎の青眼寺の水町老師と拙僧が激励の思いを込め、現地ミネソタの宝鏡寺の安居(あんご)という厳格な修行期間にお邪魔しました。ここの皆さんは、木を切り、山を掘って自分達で手作りの道場を建てつつあります。

 又日本各地を歩いて托鉢され、少しずつ、日本の皆さんと御縁を深めておられます。拙僧も、日本の各地に呼びかけ、雨漏りのテントに泊り僧堂に通う現況から、もう少し安らかな修行ができるよう、ご支援をお願いし微力を尽くしています。

 この度、飛騨の地へ、永くご修行の3人が北米ミネソタより托鉢に来られることになりました。この機会に、丹生川文化ホールを使用して、皆様に御参加いただき、喜捨をいただき、講演会を開くことになりました。

 山紫水明の飛騨高山においても、人間のおごりや侮りの心を捨てて、謙虚な気持ちで地球、大地、自然からの危険信号を聞き反省することが大切であります。

 地球仏教は、海を越え、民族を越えて地球の苦しみ痛みを知り、大宇宙の大和楽の平和の願いに応えなければなりません。

 ベトナムの禅僧で行動する仏教者ティク・ナット・ハン師は「地球の上を歩くことは奇蹟である」といわれます。

 四国の詩人坂村真民さんは「尊いのは、足の裏である」と地球に毎朝額をつけて、世界平和を祈念されています。

 托鉢を通して、釈迦の教えを実践されるミネソタの方々との御縁を大切に、ここに、飛騨托鉢講演会を開くことを発願しました。どうかご賛同くださいまして、喜捨をお願い申し上げます。

 発起人 正宋寺住職 原田道一

ワインコフ彰顕師のプロフィール
出生年
1939年アメリカ合衆国

ミズリー州セントルイス   「13歳の時トリックの神学校に入学、カトリックの祭司になるため12間学び、1965年祭司となる。3年間祭司を勤めた後、修道院を出、人間関係について学び修士号を所得、さらに、カンセラー教育について学び博士号を所得、以後心理学者として10年間を過ごす。

 1976年アメリカで片桐大忍老師と出会い禅仏教を学び始め、ミネソタ禅メディテーションセンターのメンバーとなる。

 1985年片桐老師より出家得度を受け、1988年に老師の法を縦ぐ。(嗣法)1989年日本に渡り、92年まで3年間、栖崎一光老師の指導のもと、瑞応寺専門僧堂や聖護寺国際禅道場で修行、その後帰国し、現在ミネソタ州東南部、ミシシツピー川沿いの人里離れた谷にある宝鏡寺で、修行道場の設立にあたっている。

通訳 SZI事務局 黒柳博仁師
(天周院副住・曹洞宗海外振興協議会委貝)

魂の文章術
  Date: 2007-07-22 (Sun)

本のタイトル  魂の文章術 ナタリー ゴールドバーグ著()

インターネットのおがげで、この本に出会った。実はこの本に良く出てくる片桐太忍さん( 親しさをこめて)は、いまから三十年ほど以前、片桐太忍の生き方に引かれ、私は単身渡米して、晩秋のミネソタのミネソタ禅センターを訪ねた。その後、たびたび、渡米し
北米の禅のメンバーと交流した。やがて片桐老師は、示寂された。
その後 ミネソタ禅センターの後を依頼された奥村正博老師(今も北米で活躍中)の依頼もあり 、墓参を兼ねて、ミネソタを訪ね、 ご恩になったミネソタ禅センターを少しでも日本から支援しようと「ワン ボウル ネットワーク ミネソタ」の事務局として日本の皆さんの
支援を頂き、その数年後には、片桐老師のお弟子で日本の瑞応寺僧堂にて修行されたワインコフ、彰賢師を招いて、飛騨の片田舎の村にて、ミネソタ禅センター支援の托鉢講演会を開いた。日本各地の禅のお坊さんも駆けつけ、日本の地方紙も取り上げてくれて、日本と北米の禅の交流の足場をつくった。
 
さて、ナタリー女史については、片桐老師から聞いていたが、片桐老師を出身地、福井県の田舎の泰蔵寺を訪ねたナタリー女史の紀行文をインターネットの検索で、探し出し、感動をもって拝読した。

彼女の著書も知り、高山市内の本屋により、「魂の文章術」に巡り合うことが出来た。
読後の感想は、いたるところに魂を入れて片桐老師を紹介し、道元禅の只管打坐の日常を示した楽しい禅のテキストである。
翻訳された方の力量にも及ぶことが多いこの本が、再度私たちによって日本にひろく広まることを切に願うものである。
                                        岐阜県高山市 丹生川町北方  原田道一

天皇陛下のおことば
  Date: 2007-07-07 (Sat)

天皇陛下のおことば
民生委員制度創設90周年記念全国民生委員児童委員大会
平成19年7月5日(木)(日本武道館)
 本日,民生委員制度創設90周年を記念する全国民生委員児童委員大会が開催されることを,誠に喜ばしく思います。
 本年は,大正6年笠井信一岡山県知事が,当時の県民の1割が悲惨な生活状態にあることを深く憂慮し,これらの人々の救済策として,済世顧問制度を創設してからちょうど90周年になります。またこの制度がつくられた翌年には林市蔵大阪府知事が貧しい人々の生活状況の調査や救済に当たる方面委員制度を発足させました。この方面委員制度は,昭和11年,全国的制度に発展し,戦後は民生委員制度として今日に受け継がれています。これらの制度が始められたころは福祉に対する社会の関心がまだ低く,恵まれない人々を救おうとした関係者の努力はいかばかりであったかと察せられます。
 近年高齢化に伴う社会の変化によって,家族や地域社会の絆(きずな)が弱まり,社会から孤立した人々の増える中で,民生委員・児童委員の仕事は,ますます重要性を増してきています。さらに,地震や台風などの災害が発生した場合の対応のために,民生委員・児童委員の日ごろの努力の積み重ねが求められています。 
 現在,全国で22万人を超える民生委員・児童委員が,社会奉仕の精神をもって,助けを必要とする人々のために日夜尽力していることを,誠に心強く思います。どうか,今後とも,地域の人々の生活状態をきめ細かく把握し,地域の人々の心身の支えとなって,力を尽くされるよう願っております。 
 この記念大会が,全国の民生委員・児童委員が一層協力し合って国民の福祉の向上に努める契機となることを希望し,大会に寄せる言葉といたします。 



精心道
  Date: 2007-07-04 (Wed)

精心道では、思いやりと明快さをもって創造的に生きようとする人たちが、体験を通してともに学びあい、成長してゆくためのワークショップを各地で開催しています。コミュニケーション理論、神経生理学、サイバネティックス、そして、人の身体も自然界の一部としてとらえる伝統的な東洋の知恵などが、私たちが基本にしている考えです。[ >>さらに詳しく]



チャーリーさんがいつも話していること

 ミネソタで禅仏教を学んだ作家のナタリー・ゴールドバーグは、こんなふうに書いています。「禅の教えは私にとって、手のとどかない所にある抽象論ではなく生きた現実のものとなった。なぜなら、禅の教えをそのままに生きておられる片桐老師という存在を、目の当たりにしたからだ」
精心道」の基本前提
  Some premises of Seishindo

「関係を支える自己」の重要性を認識した上で、精心道の活動は、以下の基本前提にその基礎を置いている。

1) 受け入れられ、安全で、尊重されていると感じられるようなサポート感に満ちた環境こそが、学習し、適応し、変化を遂げようとする人間の能力を確実に伸ばす。

2) どの個人にも、みずから健全な心と身体を創ることができ、内なる自分の状態を感じとる能力が、生まれながらに備わっている。

3) 心と身体で実感される幸福感が、私たちが接触しうるすべてのものを含みながら広がってゆくためには、「私」と私以外の人を含む有機的に絡み合った「全体」を捉えるバランス感覚が求められる。

4) 身体の動きといきいきした気づきの感覚に満ちた動的なリラクゼーション状態は、学習を支援するために不可欠な要素である。
 動的なリラクゼーション状態にあるとき、私たちは鋭敏性がありフルに活動的に動ける感覚をもつ。これは何か「善きこと」が起こる準備ができていることを示している。何も多すぎず少なすぎず、余計な努力や緊張もなく、効率よく優雅さをもってふるまうことが可能になる。

5) あらゆる生きたシステムはネットワークでつながっている。それは生存し成長するために、個人としての自分を編成すると同時に自分が属する環境をも編成するように、本能的にうまく自己組織化したネットワークである。効果的な自己組織化 [self-organization] は心身の健康的な状態を促進し、素晴らしい人と人との結びつきを作り出す。
 生体システムのバランスがとれリラックスしているとき、私たちは心理的感情的に健康である。自分の自己組織化機能を刺激し目覚めさせる最も簡単な方法は、一時的にバランスが崩れた状態になってみることである。そしてシステム自体が本能的にバランスを取り戻そうするのにまかせそれを援助すればよい。「バランスを崩し、支援を受けてバランスを取り戻す」このメソッドの例は、1週間で禁煙をめざす専門治療施設の中に見ることができる。初めに喫煙を停止することは(喫煙者当人を)アンバランスな感覚に陥らせる。専門施設で受けることのできるカウンセリングと支えあう雰囲気とによって、習慣と感情の健全なバランスの回復にむけて進むことが可能となる。

6) 適応し変化する能力は、自己組織化機能の一部である。動的にリラックスしながら継続的に再編成(再組織化)ができる者は、もっとも適応力と変化力に長けた個人といえる。適応する能力は学習によって獲得される。

7) 多様なシステムにはいろんな要素が含まれている。私たちが生きる不均衡な生物圏ではあらゆる存在が多様性に富んでいる。多様性なくしてはシステムはそれ自体を維持することができない。多様性がなければ情報不足に陥り、代替案や解決を見つけることができない。多くの場合、解決は不完全で、間違っていて、反復されるものの中に見い出されるのである。多様性の扱いに長けたシステムは複合的なリアリティから解決を引き出し、学びとれる可能性を含んだ新しい情報に対してオープンである。

8) 人間はいまなお相互連係的、相互依存的な部分が集まって成り立つ存在である。状況から得られる互いに異なった要素を受け入れ、吟味し、利用する私たちの能力は、質の高い解決と適応を導く。
 まとまりをもたない豊かな情報源に含まれる相関作用や相補性に比べれば、‘良い’‘悪い’という二者択一的思考にもとづく概念は重要ではない。例えば、国際結婚などで異文化が併存する家庭では、宗教、倫理的行動、文化的規範に関するさまざまな信念を統合し、受け入れ、意味を把握し、使いこなすことが余儀なくされる。サポート力と愛情に満ちた家族体を築くプロセスは、両方の親の文化をたっぷり含んで統合させた‘新規の’文化を発展させることに行きつく。活気のあるシステムは複雑さを糧にして成長する。複雑さを、システムの総体的な統合力をいっそう強める生産的な歩み寄りを促進するための原動力として利用する。バランスがとれていないシステムであったなら、複雑さは混乱とカオスを意味するのみである。

9) 生きてゆく上で確かな意志をもって変化を作り出そうとすることは、しばしば却って問題を長引かせる傾向がある。質の高い学習と適応には通常、周囲の世界に対する考え方と反応の仕方のパラダイム・シフトが必要とされる。例えば、無責任に見える青少年の行動は、両親から絶えず厳しく叱責されることにより、しばしばさらに悪化する。子どもを責任ある社会人として育てるために、親としてどのように子どもをサポートできるかをシステム論の見地から理解することによって、権威主義的なかかわり方では不可能な多くの行動変化への扉を開くことができる。

10) 私たちのほとんどの行動や思考のプロセスは通常、習慣性をもつ。いったん習慣になったものはそれが何であれ自然なものだと感じる傾向があるが、しばしばこの手の自然さは不自然なものである。長続きする変化と学習は、しばしば私たちに深く根付いた習慣の転換を必要とする。


■ 精神治療のオルタナティブ・モデル
  An alternative model of psychotherapy

 ソマティック・サイコセラピーは、身体で体験するレベルでクライエントにはたらきかける。まず身体が先導しそれに理性的精神が続く。

 ソマティック・セラピーが、身体に備わった言語を口頭言語に翻訳することから認知的理解が引き出されることに価値を置いて以来、精神状態を把握するためにまず初めに私たちは身体に目を向ける傾向がある。クライエントやプラクティショナーといっしょに、私たちは身体とコミュニケートするためのフェルト・センスを感じ取る。そうして、意味ある変化を遂げるために、無意識的に生じたクライエントの身体に備わった知性の助けを得る。この変化は、心的な健康状態を得るために身体はどんな変化が必要なのかというクライエントの感覚によって作られる。この感覚は、言葉の習得以前の生来のものとして備わった感覚である。いったん身体の変化がはじまったなら、私は2つの知恵を合理的な理解へと統合するために、自己間関係理論に基づいたさまざまなプロセスを用いてより深い会話をクライエントとの間に築く。

 この章の私の解説が、身体で経験されることに重点を置いたセラピーの実践へ近づく道となり、あなた自身の身体に備わった知性を見直す契機になれば幸いである。そして、次のことを心に留めておいてほしい。まず第一に、この文章は私自身、理解するのに何年もかかった、実際非常にとらえがたい領域の話をきわめて簡単に述べたにすぎない。無意識的に生じる動きや姿勢を変化させる方法で人々を援助する技量を身につけるには充分なトレーニングが不可欠である。適切な方法をとらなければ、人々はただ単に身体を押されているようにしか感じないだろう。第二に、それぞれの個人が示す動きはその人固有のものである。人によっては楕円を描いたり8の字に動く人もいる。人によっては首は硬直しているのに胴体はよく動く人もいる。逆に胴体はかなり堅いのに首と頭は自由に動かせる人もいる。まだまだ他にも言い尽くせない組み合わせがいくらでも存在する。第三に、自分の姿勢と動き方と呼吸法を変えることは自分の感情と精神の状態に効果を及ぼすが、さらに重要なことは、それらすべての変化が、他者との関係を容易にし、自分が周囲の世界に所属しているのだという総合的な感覚を伸ばす助けになるということである。この「2つの知恵の源泉」に同時に触れそれを活用する原則を人に語り教えることは、素晴らしく心のこもった温かみのある人生を生きるために必要なすべてのものを、私たちは既に所有しているか、あるいはそれに触れていることを意味する。クライエントに対して敬意をもって接し、彼らの存在のほんとうの壮大さを経験するとき、私たちはつながり合う循環の中に身を置いているのだ。この循環の中にいる両者は、普段考えている以上に、与えられた生命を最大限に生きる力を自分たちがもっていることに改めて気づくだろう。<終>


日本語訳:下尾崎 勉
   協力:木谷 文代
[謝辞]
自己間関係理論に関する訳語については、『愛という勇気―自己間
関係理論による精神療法の原理と実践』(スティーブン・ギリガン著;
言叢社; 1999)を参考にしました。この価値ある邦訳によって、
私たちに新しい地平を示してくださった元国立小児病院精神科医長・
崎尾英子先生に心から感謝申し上げます。



日本仏教綜合研究学会
  Date: 2007-07-03 (Tue)

平成17年度 会員業績一覧




日本仏教綜合研究学会第5回大会開催  (会場:早稲田大学国際会議場第一会議室)


期  日:2006年12月10日(日)
会  場:早稲田大学総合学術情報センター国際会議場第一会議室 
懇 親 会 :大隈ガーデンハウス
参 加 費:1,000円      懇親会参加費:4,500円


1.開会の挨拶  会長 松尾剛次(山形大学)            13:00〜13:10

2.研究報告(報告30分・質疑20分)
 @中世における高僧とその母−禅宗の事例を中心として−       13:10〜14:00
    海老澤 早苗(駒澤大学大学院)
 A中世後期禅宗における女人成仏思想               14:00〜14:50
    松下 みどり(相模女子大学)
 B道元の「仏性」論について                   15:00〜15:50
    頼住 光子(お茶の水女子大学)

3.講演(講演50分・質疑10分)                   16:10〜17:10
  仏教研究と国史学
    大隅 和雄(東京女子大学名誉教授)

4.総会                              17:10〜17:40


5.懇親会                         18:00〜


小杉淑子 飛騨の匠学会
  Date: 2007-06-24 (Sun)

第一部 「修理者から見た飛騨の匠」   小杉淑子

小杉でございます。とても緊張してまいりました、大勢の前でのお話は初めてです。専門家でも、先生でもありません。たまたま家業を通じて、諸行に出会うことがたくさんございます。今日は匠学会というところで、結びつくのか判りませんが、よろしくお願いします。

お内陣の修復をさせていただいています。
たとえば、お寺の本堂の漆塗りとか、金箔の張替えなどを行っています。ここへ持ってきたパネルは最近、何カ寺かやらせていただいた仕事でございます。皆さんがお考えのように寺院仏閣を修理するということをやっているわけではありません。

先人達が残してくれた、100年前、200年前、500年前の匠の技に出会うことになります。
丹生川の正宗寺様の修理をさせていただきましたが、それは200年以上前の建造物でした。

丸一日悪戦苦闘をしました。天板が容易に外れませんでした。引っ張っても押しても無理でした。よく先代がありみぞに気をつけろ。引っ張ってもだめだぞということが頭にありました。そのときにかんぬきになっている抜きを外さなければ次の段階に進めない。そして一日がかりで分解したすみ壇でございます。

上からたたいても駄目で、覗き込んでいたりしたのです。一つ一つパーツにするのです。
こんなふうにして段々、外すのですが、なかなか外れません。 釘が斜めにささっていました。最後の段になったとき、これがまたどのようにしても、なかなか外れませんでした。床の下に止めてあるに違いないと、床の下に行きました。そこにも何の手がかりもありませんでした。そのとき発見したことは、床に釘が斜めにうちこんであることでした。下からも上からも斜めに打ち込んでありました。いたのそりを計算してこういう風にしてあるのかと思い大工さんに相談しましたら、大きなハンマーで打ち込むと、抜けやすい。小さなハンマーで打ち込んだものは抜けにくいものなんだよということでした。
斜めになっている釘です。ここでそういう場面に出会わせていただいたということです。

明治時代にも修理をされたあとが残っていました。そのころの修理というのは、時間という計算のない時代だったと思います。手間暇をかけてきっちりと仕事がしてあって、いまではできないよねという場合があります。
正面の欄間を外した時です。元文三年高山住松田以治という文字が出てきました。松田太右衛門さんです。太右衛門さんはそのときまでに10か寺以上も造っておられる有名な大工さんです。この本堂を建立されたのか修理に出会って名前を残されたのか、わかりませんが、お寺には記録がありませんでした。此の名前に出会ったとき、大変どきどきしました。

ここには元文三年と書いてありますが、ちょっと読みづらいと思いますが、埃の下からは寛保元年、これにも飛州高山住 松田太右衛門以治と入っていました。もし彼が彫刻をこなしておられたとするなら、真ん中の彫刻と見事な計算がされた彫物です。なんと見事な彫物だろうと感心しておりました。

いまの私たちなら、違う工法を使うところなんですが、ひしの計算がきれいになされておりました。

また、朝日村の長延寺さんをやらせていただいた時に、150年前の野麦御坊という立派なお寺です。こころとか思いに感動しましたので、その話を少しだけさせていただきます。
本堂の中はケヤキ作りの非常に1.5mの柱にとても厚い虹梁がありました。檀家さんの話の中で、このお寺を普請しようとして、寄附を募るが集まらない。庄屋さんのおばあちゃんが、うちの財産を半分かけよう。と言われました。森家という旧家ですが、いまでも残っています。半分の資金をだされるのですが、お寺ができたとき、代官所から検査に来ます。6本の柱全部をケヤキにするというのは、許可がおりなかったそうです。建物が完成した時に、川の手前で宴席を作って、「水が多くございます。もしものことがあってはと思い、こちらでお待ちしていました。と、わざと川の手前のお寺の検査をさせた」ということです。当時は、首が飛ぶ時代ですから、当時の話は命をかけて造ったのだということに感動しました。
「おかげさま」には、その当時の、いまよりは豊かじゃなかった、しかし、ひだびとの物心の厚さを掲載しようと思いました。お寺だけはしっかり造ろうとした皆さんの気持ちがそういうお寺を作った気がしました。
そのとき、この「おかげさま」を造ったのです。こういう思いを、残したいとコピーライターにお願いして作りました。どこのお寺でもそういうお話があります。そうしている内にやっと、5号までたどり着きました。

当時は山の資材もたくさんあったでしょう。長延寺さんも、本堂を建設する時のために山の木を切り出して、水につけて保管していたそうです。確かに6本の内、2本はせんの木でした。資源を大切にしようとする気があったのかと思います。今は、材料はどんどんきってしまい、足りない部分を海外からもってくるようなそういうことが多いです。
しかし、資源を大切にしようとするこころは失われています。
いい材料を使おうとすると、予算があります。納期があります。安くて早い仕事をされるところのほうがほとんどですから、私のところの仕事は高いと言われます。ただし、10年して壊れるようなものは作りたくない。やはり、100年、200年持つものを作りたい。僧思っていますから、はなから断る話も多々あります。

下呂市の鐘楼堂の一本が雨水でくさりかけました。その場面にたまたまおりまして、大工さんか総代さんかわかりませんが、その場に居合わせました。
屋根の下に柱があります。そのときその人は、切って抜きを外して一本だけ取り替えようといわれました。私は、大丈夫かなと思いました。寺社建築は色々違いますから、専門の方に見て頂いてはどうですかといいました。ご住職が「じゃあ、いい人を探してきてください」と言われました。そこで、高山の宮大工の八野明さんに相談しました。八野さんは、抜けるものなら抜いてみなさいといわれました。ご提案の修理方法は、先ほどの話とは違いました。屋根を浮かせましょう。外した後で腰抜きを抜きましょう。とおっしゃいました。
柱の中に抜きが組み手になって入っている。夫々の柱の中に組み手になって入っているから、屋根の重み、鐘の重さを計算して立っているのです。といわれました。
そこで結局は、八野さんにお願いすることになりました。材料を手配し、何ヶ月も乾燥させて、やりますといわれました。そして、もし、早くやっていただきたいのであれば、外へ頼んでいただいてもいいです、ともいわれました。
きちんとした修理をすることはとても大切なことです。

そのときの利益主義での仕事はいけない。文化財は残さないといけない。私たちの業界の職人さんはほとんど京都周辺ですし、塗りは輪島周辺です。みんなそこから全国へ飛んでいます。私は重文の資格者である彼らに助言をいただいています。本物の材料を使い、手間を惜しまないで、仕事をしたいのですが、職人の世界というのは施主がこれだけでやってくれといえばそれにあわせないといけない。
合成漆は、安いですが、湯のみ一杯100円。中国漆は1万円。国内漆は6万円です。材料の原価が違います。仕上げた時は一様にきれいです。でも100年、200年後のことを考えると、そのときだけよければいいのか、そういうことを思います。
愚直と呼ばれてもいい。それを継承できればいい。それが使命だと思います。
「おかげさま」5号に書きました。貧乏したければいい職人になれ。これは飛騨の言葉です。
いつも先代とそういう話をしていました。本物を受け継ぐことが、飛騨の匠の使命だと思います。
最近出合って思ったことを述べさせていただきました。ありがとうございました。」

(徳積善太)





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